第29話 京の人質時代の思い出語り
6月14日巳の刻。
お涼は鶴丸城下にいた。
道路がジグザグにひびわれていたり、茶店の看板が傾いでいたり、武家の板塀が歪んでいたり……先夜のなゐによる乱暴狼藉の痕跡が、城下の随所に見られるが、喉元過ぎれば、ということであろうか、昨日の今日とは思えぬ、まことに穏やかな日常風景が展開している。
――まあ、みなさん、何とげんきんな……。ま、そう言うわたし自身も、昨夜、山中で震えながら行った殊勝な反省は、とっくに念頭を去っているんだけど……。
活気づく城下の賑わいに、お涼の記憶は自ずから在京時代にもどって行く。
最愛のご先夫・久保さまの喪も明けぬ内に、太閤秀吉の命で義弟・忠恒(家久)と再婚させられた亀寿ノ方さまは、傍目にも鬱々たる日々を送っておられた。
文禄の役に参戦し、兵を率いた忠恒が朝鮮へ渡ってからも気鬱はつづいていた。
その苦悩を見兼ね、こっそり城下へ連れ出してくださった方がいらっしゃった。
たれあろう、姑の宰相どのである。
あの忠恒のご生母とは信じがたいほど、見た目は
辛いことも楽しみに替えてしまう、天賦の才の持ち主でもあられる宰相どのは、塞ぎこんでいる嫁の亀寿ノ方さまにはお顔映りのいい緋色、侍女になったばかりのお涼には若々しい桃色、ご自分用には渋い紫紺の
女3人のお忍び城下見物は、田舎出の好奇心をいたく満足させてくれた。
*
はんなりした京言葉を交わし合う伏見城下。
言葉も所作も桝のように武張った鶴丸城下。
お涼には、両者の比較が興味深く思われた。
他国は知らぬが、薩摩の場合、城下の町人といっても過半は武士である。
ふだんは町人の生活を営み、いざというときは押っ取り刀で駆け付ける。
半武半町の気構えが、路地の隅々まで行き渡っている。
――われこそ
気負いを全身に漲らせ、大仰に肩を揺すって大股でのし歩く武張った輩ばかり。
鶴が羽を広げた形から生まれた鶴丸城の別称とは、大きく遊離する所以だった。
一方、義久が拓いた国分城下には唐人横町があって、異国情緒が際立っている。
同じ城下でも、こうまで違うのだ。
*
今日のお涼は、城外の山村から出て来た中年の百姓女を装っている。
「あいよ。邪魔すんじゃねえ。すっとこどっこい、どいた、どいた、ほいさっさ」
色褪せた絣の背中を掠めてゆくのは、京あたりから走って来た飛脚らしい。
「ぼやぼやすんじゃねぇや。薄汚ねえ百姓婆め。どこに目ん玉を付けていやがる」
わざとらしくぶつかって来るのは、垢じみた着流しの牢人者である。
葱が腐ったような、酸っぱい、動物の死骸のような体臭が鼻を突く。
――おお、いやだ。長らく湯を使っておらぬらしい。
かように強烈な悪臭を
如何な男日照りとて、あんな輩はこっちから願い下げだわ。
婆あと言われた腹いせにツンケン歩いて行くと、見覚えのある店に行き着いた。
深紅の一枚暖簾の両端が地面の石に結ばれ、中を覗かれぬ仕掛けになっている。
中央に肉太の「艶」の一文字、隅に小さく「一見様乞御遠」と添えられている。
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