第54話 歳久&家臣団の亡霊



 

 子の刻。

 お涼は再び自刃の現場にいた。

 相変わらず単調な潮の音が、異界への誘いを奏でている。


 そのとき。

 氷山が割れるようにさざなみの一部が盛り上がり、見るも無残に痩せ衰えた武将が、忽然とすがたを現わした。

 ざんばら髪に落ち窪んだ目。全身から滴り落ちる滴などは佐土原城の亡霊と同じだが、骨と皮だけに病み衰えた相貌は、人間のものとは思えぬ物凄さである。


 ――だれが見ても瀕死の重病なのに、秀吉は如何なる報告を受けたものか。まさかのことに、お追従好きな家来が主の意向を忖度し、虚偽を述べ立てたのではあるまいな。かような重病人に、とてものことに出陣などできようはずがあるまいに。


 例の駕籠への矢掛けの一件にしても、かえって「なかなか見所のある奴じゃ」と思し召すぐらいの、天下人らしい度量を持ち合わせていなかったものか。残念な。


 ――ふん。所詮、猿は猿というわけか。


 病み衰えた大将の亡霊は、息も絶え絶えにつぶやく。

「中央に背く気など、さらさらなかった。子どもや家臣への災厄を思えば、臥していても気が気ではなく、這ってでも朝鮮へ出陣したかった。無念である……」


 かたわらに跪くのは、殉死した家臣たちだろう。

 揃って優秀で鳴らした「島津4兄弟」のうちで、とりわけ人望が厚かったという歳久の自刃に当たっては、大半の家来が殉死を希望したが、


 ――ならぬ。そなたたちは生き延びて、島津の家を守ってくれ。頼むぞ。


 虫の息の歳久は凛然と命じ、ごく少数の近臣にしか殉死を許さなかった。


「だれがどう言おうと、われら家臣は殿のご心中、とくと存じ上げておりまする」

 甲冑の腰まで波に洗われた家臣どもの亡霊が、どよめくように言い立てる。


 そのなかのひとりが緑青色の顔を屹然と上げ、正面からお涼を凝視して、

「そこなる娘御。これも何かの縁じゃ。わが殿のご無念、しかと伝えてくれぬか。時折り、われらはこうして出て来るのじゃが、昼間はともかく、日が暮れると、人っ子ひとり通らぬ場所ゆえ汚名挽回がままならぬ。往生しておったところじゃ」


 ある意味、亡霊慣れしたお涼は、家臣の長らしい亡霊にしっかりと頷き返す。

「責を一身に負われたのに都合よく忘れられたままでは浮かばれますまい。お任せくださいませ。みなさまがご成仏できるように、手を尽くさせていただきます」


 骸骨に皮を張り付けたような大将の亡霊が「相済まぬ」というように合掌する。

 揃って人の好さそうな家臣の亡霊たちも、われ先に大将に倣って手を合わせる。

 大勢の幽霊にいっせいに合掌されたお涼は、いささか身の置き場に困っている。

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