第53話 歳久の自刃に泣いた坊津海岸





 

 そのまま何事もなくときは過ぎ、文禄元年(1592)。

 海を越える朝鮮出兵が、秀吉が仇敵と認識する歳久を討つ絶好の契機になった。


 あろうことか、歳久はまたしても出陣命令に従わなかった。

 といっても、実際は重病の床に伏していたのだったが……。

 いずれにしても、すべての生殺与奪は秀吉の掌中にある。


 折り悪しく、歳久の忠臣・梅北国兼が一揆を起こした。

 風采の上がらぬ小男が天下人に収まるには、それなりの人心掌握が必要である。

 異国征圧の大風呂敷を広げた、まさにそのときを狙ったかのような謀反は、断固許しがたい。梅北一揆の報を聞いた秀吉は「しめた!」と膝を打ったやも知れぬ。


 ――仇討の時機、ついに到来せり!


 しかし、正当付けの大義がほしい。

 で、理屈をこじつけることにした。


 御大将の歳久が朝鮮へ出陣中の一揆であるならば、鷹揚に許してつかわそう。

 だが、もし日本に残っていれば、家臣の謀反を知らなかったでは済まされぬ。


 歳久は渡海しているのか、いないのか。

 さあ、どっちじゃ?


 ――左衛門督のみの話にあらず。むろん、連袂れんべいは島津の一族郎党に及ぶがの。


 駄目押しが口もとまで出かかったが、それから先は言わぬが花というもの……。


 追い詰められた歳久は重病の身を起こして長兄・義久の城へ出向くと、永の別れを告げた。そして、ようやくの思いで坊津までたどり着くと脇差を手に入水した。

 だが、長く臥せっていたために手に力が入らず、なかなか自刃が叶わぬ。

 病み衰えた歳久は、苦悶の声を振り絞って同行の家臣に介錯を所望する。

 歳久を慕う家臣共は男泣きに泣くばかり、だれも介錯の名乗りを上げぬ。


 一族を背負う義久に「万一、逃げられでもしては御家の一大事ぞ」と命じられ、仕方なくあとを追って来た格好の家来どもも、堪らず肩を震わせ合っている。


 折しも当夜は新月だった。

 月も泣いているのか……。

 真っ暗な夜の海辺に、海豹あざらしのごとき嗚咽が殷々と響き渡った。


 やがて、死に切れず悶絶する主君を見兼ねた、家臣の某が名乗り出た。

「殿、お許しくだされ。一刻も早く、お楽にしてさしあげとうござります」

 鬼の形相で絶叫し、力任せに振り下ろした白刃が、稲妻のように光った。


「お屋形さま。お労しい!」

「何とご無念な!」

「非業のご最期にござります!」

 身悶えする家臣のすがたが、夜の浜辺に打ち上げられた若布のように揺らいだ。

 

 凄惨な現場を前にして、お涼は伝説と化した逸話を生々しく思い返していた。

 歳久と家臣共の足を濡らした波が、何事もなく穏やかに寄せては返している。

 思惑の絡まった人為に関係なく、海はどこまでも単純な営みを反復している。

 その粛然たる事実が、素足をさざなみに任せるお涼の胸に惻々と迫って来ていた。


      *


 秀吉はそれから5年後に没した。

 天下人としての痕跡を最後の最後まで現世に留めんと図ってか、長崎で26人の宣教師を十字架刑に処するという、苛烈極まりない置き土産をわざわざ残し……。


 ――おふたりのご兄弟は、揃って秀吉に殺められたのだ。


 巡り合わせの恐ろしさに、思わず絣の襟を掻き合わせた。

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