第52話 太閤秀吉に徹底抗戦した歳久




 

 11月8日巳の刻――。

 お涼は坊津ぼうのつに飛んだ。

 当地の地頭・東郷重位の許可は事前に得ておいた。


 今日のお涼は花売りに扮していた。

 頭上に籠を翳し、「花は要らんかねぇ」と呼ばわりながら港町を歩きまわる。

 海岸で網を修繕していた漁師に聞くと、島津歳久の自害の現場はすぐわかった。


「あそこに見える、でっけえ岩の向こうさ」

「ありがとう、おじさん」

「ところで、姐さん、ここいらじゃ見かけねえ顔だが、何処から来たね?」

「あい。鶴丸ご城下の近在の村から出張りやした。旦那さん、花は要らんかねぇ」

「馬鹿ぁ言うでねえ。漁師に花なんぞ、これほど似つかわしくねえものはねえよ」


 愛想よく礼を言ったお涼は、大岩の近くの浅瀬へ足を踏み入れた。

 剥き出しの足首を、日向水のように温んださざなみが洗って行く。

 ふと手を差し入れ、水と戯れる。

 引いては返す波の音が、此岸しがんと彼岸を繋ぐ雅楽の音に聞こえて来る。

 ここにこうして生きていること自体が奇跡のような。

 ひょっと足を掬われ彼岸の沖へ引き摺られるような。


 ――かようなところまで追い詰められ、さぞかしご無念であられたろう。


 お涼の脳裏に、ほぼ伝説化した二昔前の出来事が鮮明に浮かび上がって来る。

 世間に誇る「島津4兄弟」の堅い絆を断ちきった末弟・家久の客死から5年後、今度は3男・左衛門督歳久さえもんのかみとしひさ が自刃に追い込まれた。

 豪放磊落を装っているが、じつは相当に執念深い性質の太閤秀吉が、おのれの中の遺恨を許さなかったからだ。

 

 事の起こりは、またしても九州征伐にあった。

 念願の天下をほぼ制圧し終えた太閤秀吉は、算盤勘定に長けた忠臣・石田三成に軍馬、兵糧ともに万全の備えをさせ、満を持して九州に乗り込んだ。長男・義久、次男・義弘、4男・家久の3兄弟は、当初は一致して徹底抗戦を唱えていた。


 ――「尾張の小猿」に名門・島津を討てるはずがない。


 だが、3男・歳久のみは、ひとり和平を主張して譲らなかった。

「百姓から身を起こして天下を目指すとは、その志からして只者ではありませぬ。数多のライバルを蹴落として成り上がるには、成り上がるだけの器量が必要。取るに足らぬ者、身分軽き者と侮ってはなりませぬ」


 歳久の危惧は的中。

「尾張の小猿」は九州中を蹂躙し尽くした。


 慄いた3兄弟は雪崩を打って和睦に傾く。

 だが、今度もまた歳久はひとり反対した。


「僭越ながら申し上げます。和睦には時勢が重要。まだそのときではありませぬ」

 異論はやはり3兄弟に入れられなかった。


 ふたりの兄と弟が降伏したあとも、歳久はひとりで抵抗をつづけた。

 そればかりか、秀吉の九州侵攻により、大事な婿養子・忠隣ただちかを戦死させられたという腹の底からの忿怒ふんぬが、一途な歳久をして、さらなる示威行動に駆り立てた。


 陣営移動の秀吉が、支配下の祁答院けどういん領を通過すると知った歳久は、険阻な山道に罠を仕掛けさせ、身動きが採れなくなった駕籠に、6本の矢を射かけさせた。

 用心深い秀吉の指示で空駕籠だったため、歳久の襲撃は未遂に終わった。


 重大な一件が、ひとまず不問に付されたのは、恭順した義久らへの、秀吉の最大の配慮だったが、暗殺未遂を笑って許せるほど、秀吉の度量は広くはなかった。


「うぬ、左衛門督め。このわしに矢を射掛けるとは不埒千万。いまに見ておれ」

 豪胆と呼ばれたい毛むくじゃらの胸に、どす黒い恨みのおもりを沈み込ませた。

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