第13話 亀寿ノ方さま脚本、復讐劇の序章

 



 

 6月5日(陽暦7月14日)亥の刻。

 お涼は亀寿ノ方さまの居室に呼ばれた。


 今宵の亀寿ノ方さまは深更にも関わらず、涼しげな桔梗の花模様が描かれた絽の小袖をしゃっきりと召されている。亡きお父上より賜ったハレのお召し物である。


「折り入って頼みがある。国分一族にとっての一大事じゃ。心して聞いてほしい」

 国分一族とは、鶴丸城から追われた亀寿ノ方さま自ら生み出された呼称である。


 ひたと見据える眸に、昏く燃え盛る焔がある。

 血の気の失せた頬には、ひときわ、影が深い。

 

「ある女人にな、遣いをしてほしいのじゃ。わが手に島津宗家を取りもどすための第一歩として」日頃になく張り詰めた亀寿ノ方さまの表情から、おのれに託された役目の重大さを悟ったお涼は、次の瞬間、擬死状態の穴熊に早変わりしていた。


      *


 ――よいか。吐く息、吸う息、心の臓の刻み、血の流れ……寸毫すんごうも気取られてはならぬ。おのれの存在から気配に至るまでのことごとくを消し去るのじゃ。


 畏敬する丸目蔵人師の嗄れた声が、剣術遣いにもどったお涼の耳朶に殷々いんいん木霊こだまする。


 ――くノ一は体温も消せ。男に気取られる女の匂いを抹殺するのじゃ。生と死は薄皮一枚。一瞬の隙が命取りになる。忍術は生身を捨てたところに開けるのじゃ。


 お涼は久方ぶりに忍者魂を意識する。

 全身の血が、ざわざわと騒ぎ立てる。


 ――やはり、わたしはしのびの女。役目を与えられてこそ、生の意気を感じる。


      *


「もそっと近う寄れ」

 亀寿ノ方さまの招く息が可憐に甘い。

 二夫にまみえなかった証しだろう。


阿久根あくねの館のお伊都いとどのに、当館への来駕を要請して来てほしいのじゃ」


 怜悧な亀寿ノ方さまの談話は、常に簡潔を旨とする。

 まず結論を述べ、然るのちに簡単な理由付けを語る。

 くだくだしいことが苦手なお涼の性分にも合致する。

 阿吽あうんの呼吸が通い合う、姉妹のようなふたりだった。


「畏まりましてござります。万事、お任せくださりませ」

 短く一礼したお涼は、次の瞬間、廊下へ滑り出ていた。


 月明かりの庭にも、人影は見当たらぬ。

 動物好きの亀寿ノ方さまがこよなく愛しんでおられる、犬の雪丸ゆきまるも、猫の斑姫まだらひめも、仲よく小さな身体を並べて白河夜船の真っ最中であるらしい。


 石燈籠の向こうから、梔子くちなしの花が微かな芳香を放って来る。

 ご生家の鶴丸城を追放されるときの亀寿ノ方さまのお言葉ではないが、人の世の憂いも知らぬげに月は照り、星は散らばっている。爽やかな晩夏の佳き宵だった。


 お涼は闇に塗り込められた。


 ――塗り壁の術。


 得意な忍術のひとつである。

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