第38話 いざというときの味方は「民の心」



 

 子の刻。

 お涼は国分城の奥の部屋にいた。


 今宵の亀寿ノ方さまは、その心意気のごとく大胆な燕の飛翔模様の小袖を纏っておられる。国分城の財政は相変わらずだが、国分衆が川で魚を釣ったり、隠し畑で野菜を作ったりして、自給自足で援けてくれている。お召しの小袖は、亡きお父上からの贈り物ばかりで、鶴丸城を追放されてからは一度として新調されていない。


 お涼から詳細な報告を聞いた亀寿ノ方さまは、

「そうか。よくやってくれた。まずもって、首尾は上々じゃの」

 白牡丹の花のような面差しを如何にもうれしげに綻ばせる。

 かたわらで、東郷重位も浅黒い顔を、にっと弛めてみせた。


「とりあえず、うまく導いて頻繁に逢瀬を重ねさせる。すべてはそれからじゃな」


 妻の嫉妬など、一片たりとも感じられぬ。

 異常といえば際限なく異常な情景である。


 ――ご正室の身で、かように残酷なお役目を果たされなくてはならぬとは……。


 偽装夫婦に流れた17年という歳月。

 その無惨にお涼は鼻の奥を熱くする。


 お涼から「示現流」の訓練を受けている亀寿ノ方さまは、如何なるときも姿勢がいい。座位の背筋を真っ直ぐに保ったまま、恋の燕が大空を舞う袂を引き寄せて、「くっくっ」と含み笑いされるおすがたには、正直、鬼気迫るものがある。(汗)


 お涼は東郷重位と目を合わせる。

 兄弟子もまた同じ思いと見える。


 やがて。

 真顔にもどった亀寿ノ方さまから、妖しいおもむきはきれいに消え去っていた。

「お涼。相次ぐ仕事で済まぬが、次は民情を探って来てくれぬか。民を軽んじてはならぬ。いざというときの味方は『民の心』じゃと、父上がよく仰っておられた。ご苦労じゃが、よろしく頼むぞ」

「はい。お任せくださいませ。現在のお仕置きが民百姓にどう評価されているか、忌憚きたんのないところを探って参ります」


 座敷を辞したところで、お涼の全身の繊毛を逆立てる気配があった。


 ――うぬ、またしても種子島矢八郎?!


 確証は得られぬ。

 だが、曲者は彼奴を置いてほかにない。

 何を企んでおるのか、油断のならぬ奴。 

 お涼は尖った視線を四囲に鋭く放った。

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