第9話 どぶねずみ VS 明鏡止水




 眼前で繰り広げられる光景に、お涼はあらためて亀寿ノ方さまの受難を顧みる。


 ――深窓にお生まれになりながら、何とまあ多事多難な歳月であられたことよ。


 しかし、風景の一部の侍女の念など、我欲と利己主義以外に取り柄のない城主に届くはずもなく、「ふん、もうよいわ。いつまでもそうして頑固に黙っておるつもりなら、わしゃ、知らん。どうとでも勝手にせい」恩着せ男は憤然と畳を蹴った。


「最後ぐらい夫婦らしくと思ってわざわざ出向いてやったのに、そなたがそこまで意地を張り通すなら、わしにも考えがある。よいな。舅どの亡きいま、島津宗家は重物じゅうもつから庭の小石に至るまでの、ことごとくがこのわしのものと思い知るがよい。あとで吠え面をかくなよ」貧相な肩をことさら聳やかせつつ、家久は立ち去った。


 端然と佇まれた亀寿ノ方さまは、明鏡止水のお手本のように見送っておられる。

 だが、かたわらのお涼は、亀寿ノ方さまの分まで、痛憤ではち切れそうだった。


 ――おのれ、大酒飲みのどぶねずみめ! 狐に化かされ馬糞でも食らうがよい。


 内なる声で恫喝するだけでは事足りず、「ああ、口悔しいったら! 草葉の陰で妙谷寺さまも如何ほどにお悲しみでいらっしゃいましょう」思わず口走っていた。


 すると、意外にも亀寿ノ方さまは少し慌てた口調で「これ、滅多を申すでない。壁に耳ありではないか。つまらぬうわさは無用じゃぞ」お涼をたしなめられた。


「申し訳ござりませぬ。わたくしとしたことが、ついあらぬことを……」出過ぎに気づいたお涼が詫びると、亀寿ノ方さまはふっとやさしく微笑まれ、「よいよい。お前の気持ちは、よおくわかっておる。これ、このとおりじゃ」と腰を折られる。


「あ、そんな……もったいのうござります。どうかおつむをお上げくださいませ」

 慌てて止めながらお涼は、思慕する方の辛さを共有できる幸福に、瞬時、酔う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る