第8話 前代未聞の新妻斬り付け事件





 ――そういえば……。


 お涼は人伝ひとづてに聞いた逸話を思い出した。


 再婚の2人にとって、新婚といっていい時節の出来事だった。

 若い内から酒に溺れていた家久は、昼間から足許も定まらぬほど酩酊しており、何を思ったか、大勢の家臣の面前で、いきなり妻の亀寿ノ方さまを抱こうとした。


「おい、室。わしが呼んでおるのが聞こえぬのか。さっさとこっちへ来い。なに、他人前だ? かまうものか、わしは薩摩の国主なるぞ。一国一城の主なるぞ。手前の城でおのれのかかを抱いて……まあ、あれじゃわ、兄者のお古ではあるが……それはともかく、夫婦として当たり前の営みの、どこが悪い? え、申してみよ」


 むろん、亀寿ノ方さまは取り合われなかった。

 だが、酒乱男の絡み用のしつこいの何の……。


 どう宥めても収まりそうもないので、仕方なく、赤鬼のごとき家久に近づいて行ったが、あいにくの蚤の夫婦ゆえ、夫より妻のほうが頭ひとつ分も上背がある。夫らしく肩を引き寄せようにも大樹の幹にしがみ付く蝉のごとき有り様になった。


 無様に気づいた家久の火山のように揺蕩たぎり立つ劣等感が一気に峻烈し、「おのれ、室め。家臣の前でわしを笑い者にせんとしたな。うぬっ、許さぬぞ!」雄叫びを挙げると、床の間の太刀を振り上げざま、亀寿ノ方さまに上段から斬り付けた。


 ――キャーッ!


 奥方を庇おうとした侍女たちが金切声を挙げる。

 薙刀で鍛えた亀寿ノ方さまは素早く身を翻した。

 家久の家臣どもは蒼白になって狼狽えるばかり。

 華やかな本丸御殿は一挙に地獄絵図と化した。


 そのとき「待ちゃれ! 米菊丸」甲高い声が掛かった。

 家久の幼名を呼び捨てたのは、母君の宰相どのだった。


「まったくそなたは! 一国の領主ともあろう者が見苦しき振る舞いをしおって。 日ノ本一の親不孝者め! 恥ずかしゅうて、この母は穴があったら入りたいわ」

 容貌魁偉な男の生みの母とは思えぬ澄んだ明眸は、驟雨のように濡れていた。

 母君の登場とあっては、さしもの乱暴者も矛を納めぬわけにはいかなかった。


 かくて、泥酔した国主による「新妻斬り付け事件」は一件落着と相なったのではあったが……。内省や克己心とは一瞬の袖も振り合わぬ男のこと。この件もひとえに亀寿ノ方に非ありと事実をねじ曲げて、おのれの中の折り合いを付けたらしい。

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