第19話 体を捨て待を捨て対を捨てよ




 

 同日酉の刻。

 西空に霞む薄暮を分け入り、2挺の姫駕籠が国分城を出立しようとしていた。


 帰り際、ふだんは至って聞き訳がいい性質たちという茅乃姫が、何かを悟ったのか、珍しく駄々をねなかなか駕籠に乗ろうとせず、母親のお伊都姫を困らせている。


「さあ、遅くなりますから」

 何度も促された末、機嫌を直した茅乃姫はようやく自分の駕籠に乗り込んだ。

 愛らしい切り提髪をはらりと揺らせて振り向くと、きちんと4本の前足を揃え、行儀よく見送っている犬の雪丸と猫の斑姫に、胸の前で小さく手を振ってみせる。


 どこまでもあどけない姫君に、これから必ず起こるはずの運命。

 その非道を思うと、お涼の胸はぎゅっと絞られずにいられない。


 ――八百万の神々。みなさまの総力を挙げ、幼い姫君をお守りくださいませ。


 いつぞや神々にきつく苦情を述べた記憶は都合よく失念することにした。(笑)



 同日亥の刻。

 お涼は亀寿ノ方さまの部屋に呼ばれた。


「喜んでくれ、万事が首尾よく参ったぞ。お伊都どのはさすがにお聡いお方じゃ。すでに茅乃どのにも事の概要を話しておいてくれたとみえ、至って話が早かった。すべてはそなたの懇ろな根回しのおかげじゃ。これ、このとおり、礼を申すぞ」


「それは何よりでございました。まずは第一歩のご首尾の上々、まことにおめでとうございます」頬を上気させた亀寿ノ方さまの謝意を、お涼は謹んでお受けした。


 ふと月が翳る。

 いまを盛りと咲き誇る花ばなの香に満ちた庭園の闇が、いちだんと濃密になる。

 呼応するように、いっとき鳴りを潜めていた蛙の声が、にわかに威勢を増した。


      *


 亀寿ノ方さまと対峙しているとき、お涼は決まって奇妙な心持ちに駆られる。

 この空間だけが小刀で切り取られ、ぽっかりと闇に浮かんでいるような……。


 ――この世にあって、この世にあらず。


 たしかに此岸しがんに身を置きつつ、障子の向こうに展開する異界とも自在に行き来できそうな魔訶不可思議な感覚は、忍術の修業で自ずから身に着いたものだった。


 人の世は断崖絶壁を行くがごとし。

 ほんの半歩、否、四半歩を誤っても、奈落の底に真っ逆さま。

 だからといって無闇に緊張していては、かえって墓穴を掘る。


 ――たいを捨て、たいを捨て、たいを捨てよ。

   捨てて捨てて捨て切るのじゃ。


 丸目蔵人師の教えが、つい、いましがた聞いたように鮮烈によみがえって来る。

 次の瞬間、亀寿ノ方さまの前に座したお涼の身体が、ふわりと宙に浮き上がる。


 同時に、ふだんは隠しているおのれの増上慢が、むっくりと頭をもたげて来る。

 おそらく、亀寿ノ方さまという有徳に照らされ、醜い部分が表出するのだろう。


 すぐ思い上がりたがる自分が、もっとも手強い敵であることをお涼は認識する。


 ――まだまだ、これからじゃな、忍としても、人としても……。


 「ふふふ、そなたに増上慢は100年早いぞ」

 戒める丸目蔵人師の声が聞こえるような気がした。


      *


 気づくと、亀寿ノ方さまが心配そうにお涼の顔を見詰めている。

「これは申し訳ござりませぬ。つい、ぼんやりいたしまして……」

 詫びるお涼に、亀寿ノ方さまは臼の中の餅のような頬を婉然と弛め、

「よいよい。そなたの空想癖はいまに始まったことではないからの。ふふふ」

 包容力に満ちた笑顔に、今宵はどこか凄味すごみのようなものが感じられる。


 ――女子と甘く見たり、儚げな様子に惑わされたりしてはならぬ。一部の女人には艱難辛苦かんなんしんくを徳に昇華する、不思議な力が与えられておるものらしい。残念ながらわれら男どもには逆立ちしても真似のできぬ、神通力のごときものがな……」


 いつか鶴丸城下で聞いた侍の話に、亀寿ノ方さまは間違いなく該当するようだ。


「もそっと近う寄れ。あのな、かいつまんで話すと、こういうことなのじゃ……」


 手招きした亀寿ノ方さまは、あらためて事ここに至るまでの経緯を語り始めた。

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