第72話 茅乃姫から家久へ重大発表ふたつ
亥の刻。
お涼は「艶」の天井裏に潜んでいた。
縺れるように入って来た男女が、聞くも馬鹿らしい睦言を述べ立てるのは前回と同じ。くどくど執着を言い立てるのは家久ばかりで、茅乃姫はあくまで冷たく取り澄ましている。だが、今宵は途中から、茅乃姫の様子が微妙に変わり始めた。
「それはそうと、殿。わたくし、御意に添わさせていただきます」
唐突に茅乃姫が告げると、家久は一瞬、呆けた顔つきになった。
「い、いま……そ、そなた……何と申した?」
「ですからぁ、先日のお話をお受けしようかと」
茅乃姫はイラッとした様子を隠さない。
家久は大慌てで取り成す。
「おお、そうかそうか。やっと、その気になってくれたか」
「はい。ですが、今後のお屋形さま次第では、なかったことにしても……」
年端もゆかぬ少女に、いいようにあしらわれる家久の狼狽ぶりと来たら。
「何を言うておる。わしはな、茅乃。そなた無しではもはや生きてゆけぬのじゃ」
「ふん」茅乃姫は鼻先で嗤う。
「で、いつじゃ、いつ城へ来てくれる? こうなったら1日も早いほうがよいぞ」
茅乃姫の気が変わらぬうちにと、家久は性急に畳み込む。
「そうでございますね、母上に相談して、最も日取りのよろしいときに致します」
茅乃姫は、おっとりと答える。
「やれやれ、またしても母上か……。あのなあ、茅乃。そなたはわしの側室になるのだぞ、そろそろ、親離れができんかのう。いつまでも幼い姫でもあるまい……」
家久は泣かんばかりに茅乃姫に頼み込んでいる。
「なるべく、そのようにいたすように努めます。あ、ですけど……」
「な、何じゃ?」さりげない話の接ぎ穂に、家久はビクッと怯える。
「取り立てて念を押すまでもないとは存じますけれど、わたくしがお城へ伺候いたしましたら、もちろんのこと、母上の自由な出入りもお認めくださいますよね?」
「お伊都どのが鶴丸城へ……たびたび来られるのか?」
家久は、ぎょっと慄く。
「殿との逢瀬を勧めてくださった母上ですから、当たり前とは存じますが……」
至極当然と言わんばかりの茅乃姫に、家久は渋々合点するしかないのだろう。
「む、むろんじゃ。いつでも娘に会いに来るがよい」
「あ、はい。では、わたくしはこれにて」
肝心の言質を取り付けてしまうと、茅乃姫はさっさと帰り支度を始める。
「あ、これよ。もそっと、ゆっくりしてゆかぬか。ようやく会えたのじゃぞ」
家久は身も世もなく哀願する。
「だってぇ、母上がお待ちになっておられますゆえ、そんなにいつまでも……」
「まあ、そう言わずに、な?」
焦らせに焦らせた茅乃姫は、さりげなくもっとも重要な問題を口にする。
「あ、そういえば……わたくし、殿のお子を身籠ったようにござります」
「な、何? すりゃ、まことか!」
家久に矢のごとき喜色が走った。
「はい。間違いござりませぬ」
茅乃姫は南蛮渡来の腹話術人形のように、見事に表情を消し、口だけ動かして答えている。内心を忖度する習慣を持たぬ家久は、物狂おしげに茅乃を抱き締めた。
「でかした! でかしたぞ、茅乃。ついにやりおったわい。何と愛い奴じゃ」
そんなことより、茅乃姫は粗暴な家久からお腹を庇うのに忙しかった。
家久はひとり有頂天になり、ぺらぺら埒もない口説を垂れ流している。
「いやぁ、世に懐妊は数あれど、こたびほど愛の結晶と呼ぶに相応しい場合はないじゃろう。わしとそなたの子じゃ。どっちに似てもよき赤子が生まれるじゃろう」
――それはないわ。母親似ならともかく……。
「では、わたくし、これにて失礼仕ります」
暇乞いを始めた茅乃姫に、家久は泣きべそをかく。
「もう帰るのか。いましばらく一緒にいてくれ。な、頼む、茅乃」
取り縋り、哀願したが、茅乃姫はもはや氷のように冷たかった。
「今宵はその一事をご報告申し上げに参ったのでござりますから。これにて」
うしろを振り返りもせず、茅乃姫は去った。
豪奢な特別貴賓室に、家久ひとり残された。
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