第73話 茅乃姫、側室として鶴丸城へ




 

 11月29日巳の刻。

 お涼は阿久根の館の森蔭に潜んでいた。


 いよいよ姫君が鶴丸城へ上る日とあって、屋敷は朝から活気づいている。

 城主の想い者と言っても側室の身分だが、送り出すお伊都姫には仔細があった。

 詳しい事情を知らされていない家中の者たちには、


――ご正室が国分城へ別居されているゆえ、いずれは継室に……。


 もっともらしく言い含めておくよう、亀寿ノ方さまご自身からご指示があった。

 お涼が注視している門の付近がざわめいたと思うと、美麗な姫駕籠が1挺、静かに屋敷から滑り出て来た。金箔で飾り立てた姫駕籠を警護するのは生え抜きの近習6人である。一団の前後を、見るからに屈強な供侍30人ほどが取り囲んでいる。

 玄関先で見送ったのであろう、お伊都姫のすがたは見えなかった。


 ――茅乃姫さま。ご武運をお祈り申し上げます。


 女の戦場へ、茅乃姫の初陣である。


 塀の蔭からそっと姫駕籠を見送る人影があった。

 長身痩躯にして眉目秀麗。

 遠目にも爽やかで理知的な好青年の島津松之進。

 お涼の視線に気づいた松之進は、礼儀正しく目礼を送って来た。


 あたりに人影がないのを確かめたお涼は、松之進に近付いた。

「おめでとうございます。松之進さま、いよいよでござりますね」

「拙者は影武者ゆえ、かげながら、茅乃姫さまのご出立を見送っておりました」

 律儀な松之進の口から出るのは、決して皮肉などではなかった。

「次代藩主となられるやも知れぬ赤子の、紛れもなきご実父であられながら、ちらりとも名乗れぬお立場へのご覚悟、まことにご立派に存じます」

 お涼も律儀で答えてやる。


「いえ、成し遂げるべき大義の深淵を思えば、他事は些事にござります」

 四角い肩を誇らしげに突っ張らせた松之進は、そこで慌てて補足するように、

「あ、肝心の御礼を申し遅れておりました。すべてはお涼どののご指南のおかげにござります。その節はまことにありがとう存じました」

「いやでございますよ、さように畏まられては、こちらが気恥ずかしくなります」


 ところで、とお涼は切り出した。

「首尾良く男児を出産なされば、茅乃姫さまは正室に準ずるお立場になられます。松之進さまとの密会の機会は二度と訪れぬやも知れませぬが、そうなった暁には、如何様になさるおつもりですか?」


 思慮深く俯けていた顔を上げた松之進は、きっぱりと断言した。

「拙者の想い人は茅乃姫さまただおひとり。剣の道一筋に精進しとう存じます」

「まことに潔いご決断であられます。松之進さまは際立って剣の筋がよろしいと、肥前守どのも仰せでした。ご修練次第では、師を凌ぐ剣士に成長されましょう」


 少しためらったのち、松之進は秘密を打ち明けるように言い継いだ。

「将来……次代のご当主さまに剣術をご指南できたらなどと、見果てぬ夢を見たりもしております」

「まあ、素晴らしゅうございます。それでこそ、松之進さまでいらっしゃいます。大丈夫でござりますよ、一心に念じてご精進なされば、きっと夢は叶いますとも」


 深々と一礼した松之進は、剣士らしい無駄のない所作で、さっと樹陰に消えた。

 腰の物の先が真冬の陽光にきらりと光り、お涼の脳裡に鮮やかな残像を結んだ。

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