第23話 「月影足下」の卜占婆




 

 毒気を抜かれたように辟易しながら、お涼は紫紺の暖簾のれんにたどり着いた。


 ――月


 斜めにくずした洒落た文字が、白く染め抜かれている。

 そっとあたりを見まわし、素早く暖簾に身を差し込む。

 人ひとりがやっとの薄暗い通路を手探りで進んで行く。


 ――影


 今度は金茶に白抜き。

 煮しめたような暖簾を掻き分け、さらに薄暗がりを進む。


 ――足


 浅黄色が渋い、袋仕立ての二枚割れを潜る。

 すぐ目の前に、漆黒の暖簾が下がっている。


 ――下


 割れ目のない一枚暖簾。

 極太の字を払い除ける。

 仄暗い隙間に塊がうずくまっている。

 齢100は超えていそうな老婆。


 顔が皺に埋もれている。

 否、皺の中に顔がある。

 否、皺で顔が出来ている。


 煎餅のように薄い撫で肩。

 短い首に巨大な翡翠の勾玉まがたま


 そのとき、とつぜん、皺の造形の下部が真一文字に横に広がった。

「ずいぶんと遅かったではないか。待っておったぞよ。その椅子に座るがいい」

 人間の口から出たとは信じがたい嗄れ声。

 子どものころ聞いた昔話の山姥のようだ。


 老婆は板のような胸にぶら下げた勾玉をゆっくりと撫でている。

 節くれ立った両手の甲は、青い蚯蚓みみずを何匹も棲まわせている。


 ――あらむからじゃ、ならむからじゃ、はらむからじゃ……。

   いまこそ八百万の神にお伺い奉り申す、首尾は如何に?


 呪文を唱えて、老婆はひたすら黄緑色の勾玉を擦る。

 やがて、芯の部分に、ぽつんと赤い点があらわれた。

 見る間に焔に成長し、くねくね妖しげに踊り始める。


 お涼は掌の汗を意識する。

 頭がジンジン痺れている。

 トトトトトと鼓動が速い。


 魔界へ……引き摺り……込まれ……そ……う……。

 

「きえぇぇぇい!」

とつぜんの雄叫び。


 ――たったいま、お告げがあったぞよ。

   安心なされよ、事は大吉じゃぞよ。


 底知れぬ眠気から覚醒したお涼は、自ら椅子から滑り降り、老婆を伏し拝む。


 歴代島津家のご当主は、大事の前には卜占ぼくせんに頼られた。さすがに亀寿ノ方さまはそこまで迷信深くはないが、伸るか反るかの大勝負の支えが欲しかったのだろう。むかし馴染みの卜占婆にお涼を派遣した結果が大吉とは、何よりの朗報である。


 ――ふう、やれやれ。


 安心して弛んでいると、意地悪げに唇を歪めた老婆が水を差す。

「用心召され。吉と凶は表裏一体。いつ何時、ころりと反転するやも知れぬぞ」

 

 ――性悪婆め! 地獄に落ちるがいい!


 亀寿ノ方さまから預かった金子きんすを投げつけたお涼は、往路の四枚の暖簾を「下」「足」「影」「月」と逆に潜り抜け、梅雨の晴れ間の太陽が眩しい表へ走り出た。


 

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