第4話 島津4兄弟の因縁
「島津中興の祖」「薩摩の聖君」と謳われた名君・忠良の「三州統一」の宿願を引き継いだ嫡男・14代貴久には、義久、義弘(妙円寺 1535~1619 享年85)、歳久(心岳 1537~1592 享年56)、家久(長策 1547~1587 享年41)の、いわゆる「島津4兄弟」がいた。
――義久には「三州の総大将」たるの材徳、自ら備わる。
義弘は「雄武英略」をもって他に傑出する。
歳久は「始終の利害を察するの智計」において並ぶ者なし。
家久は「軍法戦術」に妙を得たり。
自慢の4孫を高く評価して憚らなかった忠良が没して約20年後の、豊臣秀吉による「九州平定」(1586年7月~1587年4月)により、巌のごとく堅いと言われた「島津4兄弟」の結束は、無惨にも完膚なきまでの分裂を見るに至った。
ややこしいが、内紛の元になった「島津4兄弟」の系譜をたどっておきたい。
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長男・義久:お平(1551~1603 享年53)、お玉(1563~1641 享年79)、亀寿(1571~1630 享年60)の3人の娘がいた。
次男・義弘:久保(1573~1593 享年21)、忠恒(家久 1576~1638 享年63)の2人の息子(長男・鶴寿丸は夭逝)と2人の娘がいた。
3男・歳久:娘が2人のみ。
4男・家久:豊久(
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島津一族を背負う長男・義久は、幼いころから目をかけた甥・久保に末娘・亀寿を娶せ「島津宗家」の将来を託そうとした。だが、新婚の久保が朝鮮出兵の派遣先で急逝したので、太閤秀吉の命で亀寿は久保の弟・忠恒(のち家久)に再嫁する。
聡明で高潔な兄と異なり、我執が強く粗暴な弟に落胆した義久は、ひそかに国主の
久保から忠恒の手に渡った政権の奪還を果たせず迎えた晩年、忠恒から迫害される亀寿のための最後の砦として国分城を新築した義久は、失意のうちに他界する。
家臣や領民の目を慮り、国主として一応型通りの葬儀を済ませたのちも、恨みを放逐できない忠恒は、恩ある伯父にして舅でもある義久を蛇蝎のごとく忌避した。
その憎んでも憎みきれぬ男の忘れ形見こそ、おのが妻の亀寿ノ方だった。
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