第78話 「浅き春祝ぎの宴」のひと幕
12月15日(陽暦2月2日)戌の刻。
鶴丸城の庭園に潜むお涼の頭上に、冴え渡る月がある。
――何と神々しい。
お涼は役目も忘れ、一瞬、見惚れた。
奥御殿では「浅き
平安風の装束に身を固めた雅楽の一団が、銘々の楽器を携えて控えている。
最前列が、鞨鼓(《かっこ》、太鼓、鉦鼓、三ノ鼓、
――今宵ばかりは、わが身も清浄なり。
と言わんばかりに、揃って神妙な面持ちなのが、お涼には可笑しかった。
笙の奏者が火鉢で楽器を暖めているのも、いつに変わらぬ演奏前の光景である。
やがて。
さすがは玄人と感嘆するように雅な音色が薄闇に流れ出た。
打ち物組が勇壮に太鼓を鳴らし、絃楽器組が切なげに琴を掻き鳴らし、管楽器組が絶え入りそうな笛の音を高く低く棚引かせる。
頃合いも良い頃になって、城主の家久が登場した。
早くも酒が廻っているのか、よろめきかけて近習に支えられている。
家久のうしろに、ぞろぞろ付き従って来たのは側室衆である。
先頭は威風堂々たるお鍋ノ方で、当然のように、家久の右隣に座を占めた。
他の側室衆も次々に到着したが、お鍋ノ方に遠慮してだれも前に出ようとせぬ。
最後にすがたを見せたのがお摩耶ノ方だった。
今宵のお摩耶ノ方はまた天女のように美しい。
朱や金の花模様を散らした豪奢な小袖が、細身の肢体によく似合っていた。
――いよっ、お摩耶ノ方、日ノ本一!
お涼はひそかに喝采を送る。
お摩耶ノ方はおっとりと優美な仕草で、最後列の末席に腰を下ろした。
低く闇を這っていた雅楽がにわかに高くなり、宴の開催を告げた。
そのとき、家久が唐突に振り向いて、
「お摩耶は何をしておるか? 早う近う近う。如何なる場合もわしの近うに寄れと、いつも申しておろうが」
呂律の回らぬ舌を、自ら歯痒がる。
一瞬、座がさーっと凍りついた。
右隣のお鍋ノ方の頬が飴玉でも入れたように、ぷくっと膨らむ。
座の視線が最後列のお摩耶ノ方に集中するが、当人はどこ吹く風である。
――まあ、小面憎い。一身にご寵愛を受けているからと、いい気になって……。
――なに、移り気な殿ゆえ、頻繁なお運びもいまのうちだけでございましょう。
――増上慢な小娘めが。そのうち、こっぴどく痛い目に遭うといいのですよ。
とんとご無沙汰の側室衆が、このときとばかりに意地悪な目を交わし合う。
「これ、お摩耶、わしの言が聞けぬのか。早うここれ。いますぐにじゃぞ」
短気な猿面冠者が業を煮やしたので、一座がふたたびざわめいた。
お摩耶ノ方が静かに腰を上げる。
急ぎもせず、優美な裾さばきで嫋々と歩を進めると、家久の左隣まで来た。
――では、お言葉に甘えさせていただきまする。
小腰を屈め、泰然と着席した。
家久を挟んで、右隣に巨大な岩石のように居座るお鍋ノ方の口惜しがりようは、滑稽を通り越して鼻白むほど。家臣団の最前列で竈局も般若の形相になっている。
――お摩耶ノ方さま、天晴れ!
千人以上もいる鶴丸城内で味方と呼べる者をひとりも持たぬお摩耶ノ方である。
――わたしが千人力のお味方になって差し上げねば……。
日頃は倹約な家柄だが、年中行事には贅を惜しまぬ。
今宵も盛大な宴が営まれるらしい。
雅楽そっちのけの酒宴が始まった。
寵愛するお摩耶ノ方を侍らせた家久の興奮はいやが上にも高まろうというもの。
能狂言より下賤の芸能を好む家久は、今宵も舞姫の一団を呼んであった。
昨年までの家久は、気に入った舞姫を一夜の慰めに侍らせる特権を無上の楽しみにしていたが、今年はまったく見向きもせぬ。
見向きもされぬと言えば、右隣のお鍋ノ方だった。
――お摩耶ノ方の安寧のためにも、ここはひとつ、心にもない演技でも……。
さような配慮と無縁の家久は、露骨に身体を捻じ曲げて、お摩耶ノ方ばかりに話しかけている。徹底的に無視されたお鍋ノ方は、ぎりっと歯を食いしばっている。
後方の席から湿った視線を送る竈局の仇敵もお摩耶ノ方おひとりであるらしい。
――おのれ! いまに見ておれ。
怨嗟の叫びが、離れたお涼の耳にも聞こえて来そうだ。
夜が深々と更けるにつけ、宴席は限りなく野放図に乱れ始めた。
国主らしからぬ胡乱を言い出されぬうちにと、近習がお開きを合図する。
千鳥足の家久につづき、側室衆、家来衆、雅楽の一団も消えた。
取り残された闇は、出し物が
煌々たる満月が、真冬の庭園を照らしている。
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