第82話 エピローグ
元和2年6月2日(1616年7月15日)。
お摩耶ノ方は、丸々と太った虎寿丸(のちの島津17代光久)を出産した。
島津宗家の大義を掲げる「亀寿組」の本懐は、天晴れ遂げられたのである。
*
ところで。
秋の虫ならずとも現世は無常。
この数か月でお涼の周辺にも異変があった。
まんまと次代藩主候補の祖母に治まったお伊都姫は堂々と鶴丸城へ乗り込んだ。
娘をとおして家久の許可を得て、お摩耶ノ方の居室の奥に「隠れクリス部屋」を造らせ、孫の光久にもひそかに洗礼を受けさせた(洗礼名・アレクサンドリア)。
家久から、栄達と引き換えに国分城からの離反を仄めかされた東郷重位は、
「拙者ごときにまことにもったいなき仰せ、ありがたく深く感謝申し上げまする。なれど『史記』にも忠臣は二君に仕えずと申します。畏れながら拙者は国分城主・亀寿ノ方さまに、一生、お仕えいたす所存にござります。もしならぬと仰せなら、そのときは、お上の御前で、腹を召してご覧にいれます」として粛然と辞退した。
赤子の光久に見立てた藁人形に5寸釘を打ち込んだとうわさがある窯局は、強欲が祟ってか早々に呆けた。3歳の幼女に返り、着せ替え人形遊びの毎日とか……。
お涼の顔さえ見れば
女衒の揚羽は、相変わらず商売に精を出している。
「おいら、柄にもねえんだけど、あの子たちの終の棲家を造ってやりてえんだよ。それまでは守銭奴にだって、鬼にだって、
わざとそっぽを向いた横顔が、お涼には堪らなく好もしい。
*
さらにのち。
家久の寵愛を一身に受けたお摩耶ノ方は、虎寿丸のあとに2男2女を産んだ。
産後の肥立ちを理由に里帰りしては松之進との密会を重ねていたが、細い身体での多産が祟ったのか26歳で早逝し、逆縁のお伊都姫を身も世もなく号泣させた。
人知れず3男2女の父親となった松之進は約束どおり潔癖な独身を貫いている。近頃は剣術に磨きがかかり、東郷重位の「示現流」後継者と目されている。
*
そして。
城内・城下の人びとに敬慕された亀寿ノ方は寛永7年(1630)10月5日、国分城で没した(享年60)。「持明彭窓庵主興国寺殿」の法名から「じめさあ」と呼ばれる石像が造られ、命日の10月5日に化粧直しのお祀りが行われている。
☆彡
拙い筆を尽くした物語は、400年後のいまなお、現代社会の地脈を轟々と奔るおどろおどろしき旧弊――子(ことに男子)を産まない女性が苦しめられつづけている非人道的かつ基本的人権無視の不条理――の実態への敢然たる挑戦である。
【完】
*参考文献
『島津義久 九州全土を席巻した智将』桐野作人(PHP文庫 2005五年)
『島津義弘の賭け』山本博文(中公文庫 2001年)
『島津家久と豊久』山元泰生(人物文庫 2012年)
『都城の乱』田代義博(宮崎文庫 2013年)
『カクレキリシタンの実像 日本人のキリスト教理解と受容』宮崎賢太郎(吉川弘文館 2014四年) ほかにインターネットを参考にしました。
*この物語はフィクションです。
じめさあ――島津🌺亀寿姫の本懐 上月くるを @kurutan
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