第26話 お涼、恋の指南役を仰せつかる



 

 6月12日巳の刻。

 お涼は再び、阿久根に飛んだ。


 奥御殿の天井裏から1匹の女郎蜘蛛のように床に降り立ったお涼に、雅な脇息にもたれたお伊都姫は、昨日に次ぐ今日のように、涼しげな口調で訊ねてくれた。


「鶴丸城下への隠密は如何であった? その様子では首尾よく参ったようじゃな」


 ――こちらの奥方さまもまた、性根が据わっておられる。


 今日のお伊都姫は、華奢な肢体をいっそう際立たせる豪奢な衣装を纏っている。

 紅、浅黄、青、紫紺の色糸で、野山に咲き乱れる百花繚乱を透かせた絽の小袖。

 触れればひんやりしていそうな切れ長の、右まぶたの下の泣き黒子を震わせ婉然と微笑まれる妖艶さは、この世のものとも思われない、まさに美の極致である。


 ――ご正室一筋、他の女子には見向きもされぬご夫君のご寵愛にも合点が行く。


 ひとりで納得したお涼の脳裡に、逃した魚よろしく、いまもってお伊都姫さまに未練たらたらと聞く家久の粘っこさまでが、連想遊びのように引き出されて来る。


 亀寿ノ方さまの伝言を聞いたお伊都姫さまは、漆塗りの汁椀ほどの小顔を傾け、

「承知いたした。当方は用意万端整え済みにつき、いつなんどきでも出陣の構え、ならびに覚悟ができておりますと、かように亀寿ノ方さまにお伝えくだされ」


 ――でも、あの……。


 言いかけるお涼を、お伊都姫は白い手で制して、

「茅乃については心配無用じゃ。親の口から申すのも何じゃが、あの子は並外れて賢い性質での。一度聞けば忘れぬ利発さが実年齢をはるかに超えた義侠心を養ったようじゃ。島津のお家のため、お慕いする大叔母さまのために身を挺して働きたいと自ら申しておる。わが子ながら、まことに天晴れ。そなたも褒めてやってくれ」


 うなだれて聞きながら、お涼は込み上げるものを抑えきれぬ。


 ――いたいけない姫君が、汚らわしい暴君の魔手に……。


 この手で仕掛けておきながら何ではあるが、想像してみただけで、ぞっとする。


「だが、その前にひとつだけ、どうしても叶えさせてやりたい件がある。茅乃には3つ年上の従兄がおる。備前守の兄上の嫡男で、名は松之進と申す。ふたりは幼いころから想い合った仲での、ゆくゆくは夫婦にと考えておったのじゃが、かような事態に至ったからには、まことに酷いことじゃが、添わせてやること適わぬ……」


 一気に湿り気を帯びたお伊都姫の語りは、危ういところで持ち直し、

「でな、母としては、せめて思いの丈の一端なりとも遂げさせてやりたいのじゃ。矛盾は百も承知じゃ。親馬鹿と笑うてくれてもよいが、せめてもの償いに……。で、ひとつ所望するのじゃが、そなた、くノ一の修業で恋の道も学んでおろう? いやいや、隠さずともよい。でな、初心なふたりに手ほどきを頼みたいのじゃ」


 風が立ち、屋敷の杜が盛んに騒ぎ始めた。

 屋根に何かを打ち付けるような音もする。

 雨の匂いが、遠くから攻めて来るらしい。

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