第1話 裏切り

葛城かつらぎ君、明日からこなくていいから。まさか、うちのエースだと思っていたキミがこんな不正に手を染めていたとはな。事実上の懲戒免職だよ。明日からキミの椅子はここにはないから」

 上司から言われた一言はドライアイスのように冷たく、彼女の心に突き刺さる。


「違うんです部長。私は彼にはめられたんです」

「往生際が悪いぞ。葛城君。彼が心を鬼にしてキミの不正を教えてくれなかったら、たいへんなことになっていたんだよ。キミの今までの功績を考慮して、裁判などはおこなわずに内部でもみ消すから、キミはいますぐ俺の目の前から消えてくれ」

 周囲からの冷たい目。誰も信じてくれない状況。今まで、いろんな人に優しくしてもらった思い出、飲み会の楽しい思い出が走馬灯のように彼女の脳裏を過ぎ去った。それが全部、過去のものになってしまったことの証明だ。


 絶望しながら、彼女は逃げるようにオフィスを去る。


「やあ、あや。最後に挨拶に来てやったぞ」

篠宮しのみや、ひできっ……」

 それは同期のライバルであり、婚約者の男の名前だった。だが、今は彼女をはめた裏切者。


「どうして……」

「どうして、こんなことをしたのかって?それはお前がムカつくからだよ。会社の評定でも、成績でも、上司にも…… おまえは、ずっと俺よりも上だった。なら、幸せそうなお前を突き崩してやろうと思ったんだよ。なんでもできるお前が地に伏して悔しがっている姿が見たかったんだ。はは、ざまあみやがれ。おれの心にもない優しい言葉は嬉しかったかい?不正経理の責任問われずによかったな。みさきぃ」

「――」

 彼女は何も言えなかった。こんな男にだまされた自分がどうしようもないように思えた。


「あー、ひできさんだ~ここにいたんですかぁ」

 その声の主は、ふたりの後輩の南海みなみだった。男に妙になれなれしい声の主は、葛城をいらつかせる。南海は見てくれはいいのだが、仕事は適当で男受けするものの、同性からの人気は低かった。


「あー、横領犯の葛城センパイだ~ センパイ、早く婚約破棄に応じてくださいね。あなたみたいなひとは彼にふさわしくありませんから。彼は、私が幸せにしますね」

「ふたりはいつから……」

「えーっと、半年くらい前からですかね~」

 それはちょうど彼がプロポーズをしてくれた時期。葛城はもうその時からこうなる運命だったんだと確信した。


「ひできさん。はおいておいて、早くランチいきましょうよ。私、今日はお蕎麦を食べたいです」


 結局、みんな嘘だったんだ。彼女は絶望に暮れる。



「仕事ってこんな簡単になくなるんだな……」

 実感はなかった。言葉では理解していることが、頭まで届かない。そんな感じだ。ただ、ショックだった。彼女にとっては、仕事がなくなるということよりも、必要とされていた人たちに用済みと言われたことが一番のショックだった。あたりは日も沈み、サラリーマンたちが「飲みにいくぞ」と叫んでいる。

 いつもの光景だが、今日の彼女にとっては辛い日常。わたしの日常はもうそこにはない。彼らと同じ時間を過ごすことはもうできない。その絶望感に頭がくらくらする。


 葛城綾。女。二十八歳。独身。ひとり暮らし。明日から無職。客観的なステータスを考えてみる。どう考えても絶望的状況。仕事が趣味と言っていた社畜が、勤める会社をなくしたのだ。忙しすぎて、趣味を作る時間もなかったのに。あんな男でも付き合っているときは幸せを感じていたのに。


 そんな自分から、仕事をとったらなにが残るのか。なにも残らない。当たり前のこと。どんどん思考はマイナスに傾いていく。


「はじめて使った有給が、次の仕事探しのための三十日とか笑える」

 表ざたにならないように、会社がそう仕向けたのだが。

 から笑いしかでてこない。待ち望んでいた休暇が、こんな悲惨な休暇になるなんて思いもしなかったのだろう。

「終わるのかな? 人生」

 星もみえない都会の空にむかってわたしはつぶやく。もうなにも残っていないわたしは、虚しいつぶやきだった。救いなんてどこにもない。


 いつの間にか駅のプラットホームにいた。どうやってここまできたのかわからない。

「いっそのこと、このまま……」

 バカで最悪の考えに支配されていた。

 その最悪の考えを実行に移そうとしたその時、突然、世界はグルグルと回りはじめた。眩暈? ストレスのせいだろうか? そう思った瞬間、気持ちが悪くなり彼女は倒れ込んだ。しかし、そこにあるはずの地面はなかった。闇のなかへ、吸い込まれていく。そんな、感覚。


 このまま、死ぬんだな。彼女はそう、直感した。せめて、死ぬときは誰かに看取ってもらいたかった。愛されたい。必要とされたい。それが偽りない本心だった。


 目がさめた時、彼女は……


 目がさめた時、彼女は……


 <空>にいた。そこはとても青くて、太陽がまぶしい。雲一つない晴天。ぐるんと回転すると、そこは緑と茶色に覆われた美しい大地。


 地面に向かってゆっくりと落ちていく。さっきまでここは駅だったはずだ。でも、今、ここは大空で、地面にむかって落下している。なにが起きたかわからないだろうが、わたしにもわからない。そんなネットスラングまで、思いだせないほど、彼女は動揺していた。


 上空から落下しているというのに、その速度はゆっくりだ。本当に地面に向かって落下しているのだろうか? それとも、走馬灯そうまとうのようなものなのか。どちらかは彼女にはわからない。でも、


「いやだ、まだ死にたくない」

 さきほどまで思っていたのとは、真逆の感情が湧き出てくる。生きたい。生きたい。生きたい。さっきまでの自分はなんと愚かだったのだろう。そんな後悔でいっぱいだった。


 そんな彼女を光が包んだ。なぞの光だった。それははるか下のほうから上に向けられ放たれたものだった。温もりを持った光に包まれた彼女は意識を失う。ただ、その光はなぜか安心できた。




「うおおおおおおおおおおおお」

「女神様だあああああああああ」

「いや、聖女様じゃないか? あの伝説の……」

「奇跡だ。奇跡が起きたんだ」

「うつくしい」


 地面を揺るがすような大歓声によって彼女は目がさめた。おそる、おそる目を開ける。ここは天国だろうか?

 多くの人が彼女をみている。何人いるのかすらわからない。ライブ会場のステージから観客を見ている気分だ。おがむような姿勢のひと。涙を浮かべる人もいる。なにがおきたんだろう。不思議な状況。


 ぽたぽたと雨が降る。天国にも雨ってあるんだな。雨が冷たくて気持ちよい。少しずつ意識が覚醒する。


 そこで、彼女は気がついた。背中にぬくもりを感じるのだ。だれかに御姫様だっこをされているような感じだ。そんなこと、現実の婚約者にしてもらったこともないのに。顔をあげると、そこには日焼けしたイケメンがいた。


 彼が抱きかかえてくれているらしい。

「大丈夫ですか。お怪我はありませんか?」

 男は紳士的な声で気遣った。

「はい、だいじょうぶです」

 夢うつつの状態で彼女は答える。

「よかった」

 彼はほほえみかけてくれた。その笑顔はとても温かいものだった。

 そのぬくもりが、女を包んでいる。生きているというのはこういうことなのかもしれない。それは今までの無機質な社畜生活では感じたことがなかったものだった。


 女は泣いた。なぜだか、涙があふれてきた。ここはどこかも考える余裕もなかった。

 ただ、自分が生きているという実感できたことがうれしかった。


 その日から、



 ※


 それは、女が落ちてくる少し前のことだった。


「それではみなの者、これより豊作祭を執りおこなう」


 男は、祭りの開催を宣言した。1年に3回おこなう大祭の1つである豊作祭。春に種付けした作物が豊作となるように祈願し、恵みの雨を天に乞う祭り。農業国であるこの国の最も重要な伝統行事といえる。この国の王である彼は全力をもって祈願し、雨を求める。天はそれに応えて、恵みを雨をもたらす。そして、民はそれを喜び、宴を開き歌い踊り合うのだ。


 王は神の台座において魔法陣を組み、呪文を唱え始める。

「エロイム、エッサイム」

 古来より伝わる口上を王は続ける。天候変化魔法は古来より、王家のみに伝わる秘術である。民衆は王のつぶやきを固唾かたずをのんで見守っていた。


 言い伝え通り、魔法陣より上空に向かい光が放たれる。無事に今回も成功したようだ。男は、祭りの成功を確信し、安堵した。


「なんだ、あれは? 」

 民の1人が大声をあげた。神聖な儀式の場において、本来であれば許されざるおこないだ。

「上だ。上から……」

 という声が鳴り響く。まさか、失敗したのか? 王は上空を見上げた。


 だれかが上空から落ちてくる。女性だ。上空から落下してくるというのに、彼女はまるで天女のようにゆるやかで、気品に満ちた姿をしている。


「女神さまだ」

 だれかがそうつぶやいた。

「美しい」

 本当に優雅だった。まるで、何か包まれてくるかのように、その光景は神聖なオーラを放っていた。


 魔法陣の中心にいる王に向かって、彼女は降り立ってくる。すべてが美しく、そしてはかなかった。王は、彼女を腕に迎え入れる姿勢になる。そして、彼女はあたかもそれが自然であるかのように、男の腕に包みこまれるかのように落下してきた。女のぬくもりを、男は腕で感じる。


 その瞬間、晴天であった空は、曇をつくり、恵みの雨をもたらす。すべてが仕組まれたかのように完璧だった。

「大丈夫ですか。お怪我はありませんか?」

 王は彼女に問いかける。彼女は微笑をうかべて答えるのだった。

「はい、だいじょうぶです」と。

 彼女の顔には慈愛が満ちていた。

「よかった」


 彼女は民衆から顔をそむけるように、男の胸に顔をあずけた。そして、泣いていたのだ。雨とも涙ともわからないものが王の服を濡らし続けていた。


 そして、奇跡ははじまった。

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