第18話 神の名前 1
一睡も出来ずに見た朝日は、やけに黄みがかっていた。
「ゼラ先生、どうしたんだよ!?」
早朝にルインを迎えに来たエドリグは、半地下の倉庫から出てきたゼラの恐ろしい表情に唖然とする。目の下にくっきりと隈を作ったゼラは、半眼でエドリグの手にどさどさと薬の包みを置いていった。
「先生!?」
「よろしく」
ろくに説明もせずにそれだけを告げてよろよろと玄関の方に向かうゼラを、エドリグは慌てて追いかける。玄関脇にはゼラが外出の時に必ず持っていく帆布のリュックサックが置いてあった。ゼラは半眼のままそれを拾って肩にかける。
「どこに行くんだよ?ルインは?」
ゼラの前に回りこんだエドリグは、ゼラが首に青い石のついたチョーカーを巻き、耳にイヤリングをつけていることに気付いて目を丸くした。それがただの装飾品ではないことは、エドリグにも分かっている。
「ルインは、出て行った……彼を、追わないと」
虚ろな表情で歩き出すゼラの首筋に、赤い痕を見つけてエドリグは息を飲んだ。
「ルイン、やっちゃったんだ!?」
「やっちゃったんだって!?」
思わず目を剥いて聞き返すゼラに、エドリグはおろおろと慌てる。
「ルイン、ゼラ先生が好きだって、言ってたよ?」
――命を助けてくれて親切にしてくれた相手に、惚れないわけがないだろう!
「惚れた……え?そういうこと!?」
ルインの言葉を反芻して今更ながらに驚愕したゼラに、エドリグが薬袋を放り投げて頭を抱えた。
「ゼラ先生、鈍すぎる!」
気付いてすらもらえていなかったルインに、憐れみを感じて座り込むエドリグに、ゼラもまた頭を抱える。
「そんな……」
疲れた風情で歩き出そうとするゼラだが、ふと気付いてズボンのポケットに手を入れた。その中には、手の平大の木彫りの蛙が入っている。取り出すとそれの目が光っていた。
『キエラザイト帝国の魔法医、シノ・ゼルランディア……イージャよ、分かるかしら?』
映像を伴なわない音声だけの通信に、ゼラは眉根を寄せる。
「分かりますよ……彼が逃げたことに、感付いたんですね。これから追いますから、しばらく待っていて下さい」
素っ気無く言って木彫りの蛙をポケットに突っ込もうとするゼラに、蛙から声が漏れる。
『必要ないわ』
イージャの物言いに、ゼラは思わず蛙をまじまじと見つめた。蛙は無表情にゼラを見返してくる。
『彼、あたしに保護を求めたの。迎えが彼の元に向かってるわ』
その言葉に、ゼラは問答無用で通信を打ち切った。そして、蛙の頭を撫でて怒鳴った。
「アディ!アディラリア!」
呼ばれて今の今まで寝ていたという風情の美女が映し出される。ローブを纏った彼女のしどけない姿に、エドリグは目を剥いた。
『何?』
眠たげな垂れ目を更にしょぼしょぼとさせたアディに構わず、ゼラは早口でまくし立てる。
「魔獣を、逃がした……彼は、どうやら、キエラザイトの魔法研究所に助けを求めたらしくて……でも、呪詛抜きが全く終わってないし、魔法研究所で呪詛抜きができるとも思えないから……」
『賢明だねぇ』
気だるい雰囲気のアディに、ゼラは涙目になった。
「どういう意味?」
『君は真剣すぎて、付き合ってると疲れるってことさ』
さらりと酷いことを言うアディに、ゼラは半眼で叫ぶ。
「そんなこと考えて付き合ってたの、アディ!?」
『うん、少し』
悪びれなく答えるアディに、ゼラは目眩がしてきて床に座り込んだ。
『落ち込むことないよ、ゼラ。彼は君とは違う世界に生きてるんだから』
「どういう意味?」
先程と同じ言葉を険のある口調で繰り返すゼラに、アディはまたもあっさりと言う。
『君と彼は生きている世界が全く違うってことさ。君は君なりにきれいな道を進めばいいし、彼は彼なりの道を進む。それが交わることはありえない、ってことさ』
「そんなこと、誰にも決められないでしょう!」
いつになく強い口調で言うゼラに、アディはため息を付いた。
『分かった……私が追おう。それでいいじゃないか。元々、君向きの仕事じゃないんだよ、これは。私向きだと思うよ。うん、仕方ないから引き受けちゃうよ、可愛いゼラのために~』
半分寝ながらぼそぼそと告げるアディに、ゼラは半泣きの顔で首を振る。
「私の仕事だもん……」
『駄々っ子にならないでよ。君じゃ彼の闇に付き合えない』
「アディなら付き合えるって言うの?」
挑むような問いかけに、アディは目を閉じて首を傾けてほとんど眠っていて聞いていないようだった。
「……行きます!」
一方的に通信を打ち切ろうとするゼラに、アディが声をかける。
『君、移動術使えないでしょ?どうやって追うの?』
「どうにかする!アディには頼らない!」
頑ななゼラの言葉に、アディは深くため息を付いた。
もがいてももがいても絡みつき逃げ出すことの出来ないような闇を、ゼラは知らない。
ルヴィウスに愛され、守られ、美しく真っ直ぐに育ったゼラは、ウェディーやアディのようにこの世の地獄を見たことがない。
それ故に、ルヴィウスもウェディーもルインも……アディすらも、ゼラが抱く光に憧れる。
けれど、それは近付くと強すぎて眼を焼かれそうになるものでもあった。
『君は、きれいすぎるよ』
片手で顔を覆うアディの言葉を、最早ゼラは聞かず、駆け出していた。
バッセル帝国の名門貴族、レイサラス家には魔法使いしかいない。もちろん、魔法使いは人間の中からごく稀に生まれてくる、血統が全く意味のない生き物であるから、レイサラス家だけが必ず魔法使いを生むことが出来るわけではない。
つまり、レイサラス家の魔法使いたちは皆、養子なのである。
各地から優秀な魔法使いを集めて次々と養子にしていくレイサラス家は、傭兵一族と呼ばれてもいた。バッセル皇帝のためにバッセル帝国に弓引かぬ魔法使いを作り出す。それがレイサラス家の使命である。
レイサラス家に貰われる魔法使いは、幼い時に力を強く発現したもの……自分の生まれた場所に大惨事を引き起こしたものばかりだという。
アディラリアも例外ではなかった。
――君じゃ彼の闇に付き合えない。
一日馬車に揺られ、大陸横断鉄道に乗り、それからキエラザイト帝国鉄道に揺られて三日半の長旅の間中、ゼラはその言葉を噛み締める。自分の師匠を殺したウェディーも、レイサラス家に引き取られたアディも、ゼラには想像も出来ない闇を見たのだろうと分かっていた。
そして、自分がそれを見ておらず甘かったからこそ、こんな事態を引き起こしてしまったことも、分かっている。
――ゼルランディア、私が死んだら、他の男を愛せ。私のことは忘れろ。
死の床でゼラの手を握ったルヴィウスの痩せた手を思い出し、ゼラは目の前が真っ暗になっていく気がした。
できるはずがない。あなたが一番好き。愛してる。
繰り返すゼラの声は、ルヴィウスには聞こえていなかったようだった。
――亡くした夫の代わりか?
ルインに問われた時に、心臓が凍りついたような気分になったのは、ゼラ自身、自分が誰かの身代わりだったと知っていたからだった。
ルヴィウスがかつて愛した女性が……ルヴィウスをルインと呼び、その顔半分が醜く崩れ去るように呪いをかけた魔女が、いつかルヴィウスを奪っていくのだと、ゼラは薄々感付いていた。ルヴィウスがゼルランディアと呼ぶたびに、その名前の後ろにある面影を呼んでいるのだと、気付く瞬間があった。
――私は……小さい時に自分を売ろうとしたことがあります。人買いを待って村外れの石段に座っていたあの時の、泣き出したいような、泣いてはいけないような気持ちを、あなたも味わったのならば……二度とそんなことがないように、守りたいと、思っただけです。
ルインに告げた言葉は、全くの嘘。
守りたいなどと思いはしなかった。ただ、自分の中でずっと泣いている小さな子どもの自分がいて、その姿とルインの姿が重なっただけなのだ。
ゼラは、幼い時の自分を助けるような気持ちで、ルインに手を差し伸べた。
全てを失った孤独を埋める何かを、ルインに求めてしまった。
キエラザイト帝国鉄道を降り、馬車を走らせて一月前に立った蔦の絡まる高い塀に囲まれた巨大な建物にゼラは近付いていく。馬車を降りる時、金を握らせると御者は巨大な建物を気味悪そうに見ていた。その視線はゼラにも向けられる。
これが人間の魔法使いに対する普通の対応なのだ。
畏怖し嫌悪すべき異形の生き物。
イージャがルインを見ていた目と、御者のそれは酷く似ていた。
馬車を降りて門の前に立つと、厳しい表情のライオンの取っ手が、じろりとゼラを見る。ゼラは問われるよりも先に名乗っていた。
「シノ・ゼルランディア・クローディス・イリウです、門を、開けなさい」
裾のほつれたハーフパンツに袖なしの襟高のシャツ、帆布のリュックサックを背負い、サンダルを履いたゼラは、チョーカーとイヤリングとローブがなければ、決して魔法使いには見えなかっただろう。鬼気迫る口調で命じられて、ライオンは目を閉じ門を開いた。重い音を響かせて開かれた門の隙間に身をねじ込み、ゼラは足早に玄関に向かう。
夕暮れ時の生温い風の中、大きな扉の前に立つと、それはゼラを招き入れるように自ら開いた。
「イージャ、出てきなさい!」
がらんとした広間に、ゼラの声が響き渡る。
靴音を妙に響かせて広間の中央の階段から降りてきたのは、栗色の巻き毛の女ではなかった。薄茶色の髪に水色の目の中肉中背の青年。その顔を見たことがある気がして、ゼラは眉根を寄せる。
「イージャは、今日は来ていませんよ」
軽やかな声が広間に響いて、ゼラは目を瞬かせた。
「何故?」
「魔獣と王城に行って……今頃は家に戻っているでしょう」
柔らかく微笑みながら青年はゼラの隣りに来る。その顔をまじまじと見つめているゼラに、青年はにっこりと微笑んだ。
「助けていただいた時に、お礼も言わず、すみませんでした。私はクラウス」
ごく自然にゼラの手を取る青年に、ゼラは「あ!」と声を上げる。
見覚えがあるはずだ。彼は魔獣に押さえつけられていた若い魔法使いに違いなかった。年の頃からして、『星の舟』をでたばかりなのだろう。どことなく情けない雰囲気が漂っていた。
「イージャならば私を見捨てていたと思います。本当に感謝しています」
そのまま肩まで抱かれそうになって、ゼラは慌ててクラウスの腕から逃げ出す。
「礼はいいですから、イージャの居場所を教えて下さい」
「知ってどうするんですか?」
きょとんと問われて、ゼラは険しい顔つきになった。
「呪詛抜きが終わっていない患者を連れて行かれては困ります」
「彼は、研究所を選んだと聞きましたよ?」
クラウスの笑顔に、ゼラは言葉に詰まる。
「短期間であれほどに呪詛が抜けるとは……本当にすばらしい魔法医ですね、ゼルランディア殿は。イージャも青ざめていましたよ。あそこまで抜ければ証言は充分に取れますから、これで仕事は終わりでしょう。本当にお疲れ様でした」
悪気なく笑顔で労われてゼラは愕然とした。
「何も終わってません!今は見えないだけで、彼の体にはまだしっかりと呪詛が残っています」
正論を述べたはずなのに、クラウスは不思議そうに首を傾げる。
「それに何か問題が?証言は取れましたし、彼も協力的だったので、処分されずに済みそうですよ。良かったですよね」
魔法使いと人間との価値観の相違がこれほどまで進んでいたのだと、ゼラは絶句せずにはいられなかった。
近くで魔法が発動するたびに、それに拒絶反応を起こして魔獣化し、自らの命を削ると分かっていても、それを放置するとクラウスは言っている。しかも、ルインを『処分』と言った。
「それよりも、ゼルランディア殿のようなすばらしい魔法使いが在野に埋もれるだなんて、物凄い損失ですよ。ゼルランディア殿ならば、キエラザイト皇帝陛下も望みましょうに」
ゼラにはクラウスの人当たりのいい笑みが、不気味に見えて仕方がない。手を掴まれそうになって、ゼラはぞっとして身を引いた。けれど小柄なゼラはすぐにクラウスの腕に囚われてしまう。
ゼラの肩に腕を回し抱き込むようにしながら、クラウスはゼラの耳に囁きかけた。
「どうでしょう、後宮に入る気はありませんか?魔獣の呪詛抜きの話を聞けば、皇帝陛下も喜んであなたを迎えますよ?」
「放して下さい。私は、イージャに用があるんです!」
渾身の力を込めてもクラウスの腕は振り払えず、ゼラは威嚇するようにイヤリングに指先をかける。その威力は体験済みのクラウスは、慌ててゼラから離れる。
「残念です……では、イージャのところまでお送りしますよ」
今更紳士的に手を差し出されても、それを取る気にはならず、ゼラは顎でクラウスを促した。クラウスは諦め、先に立って歩き出す。
踏み出したその一歩が、闇に向かうものだとは知らずに、ゼラは歩き出した。
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