第10話 魔法医の戦い方  3

 ゼラが用意させたのはごく普通の客間。大きなソファの上に、数名の研究員が呪詛避けの呪文がびっしりと描かれたゴム手袋とマスクをつけた状態で、危険物を扱うように恐る恐る魔獣をソファの上に横たえる。異臭を放つ異形の生き物は、ぐったりと倒れ伏していた。

 研究所を訪れる貴族や魔法使いのお偉方のために用意された客間は、調度品も整えられて美しい。こんな場所に魔獣を連れ込むなどと、イージャが喋れるまでに回復すれば不満を漏らすだろうが、医務室に担ぎ込まれた彼女は、しばらく動けない。

「すみません、調べさせてください」

 呟きながら、ゼラは素手のまま、魔獣の額に触れた。

 白い手が額から後頭部、両耳の後ろを滑り、顎の下へと向かう。頭蓋骨の形を確かめて離れていった手を、魔獣は名残惜しく視線だけで追いかけた。

 吸い込んだ薬のために指一本動かせない魔獣の首に触れ、肩に触れるゼラ。患者を診る魔法医の手つきでしかないのに、魔獣の喉から漏れた悩ましい呻きに、ゼラは目を丸くした。

 人間のそれとは思えない長い舌が乱食いの牙の間からだらりと垂れ、そこを唾液が伝って落ちていく。魔獣の灰色の目の奥に、先程までの完璧な無気力とは違う色を見出して、ゼラは顔を引き攣らせた。

「もしかして……」

 恐る恐る魔獣の股間を確認して、ゼラは目を覆う。


 イージャの言う十六~七という年齢に似合わぬ股間のそれは、グロテスクにてらてらと光り、生々しくいきり立っていた。


「嘘……アディ、一体、何をしたんですか!?」

 あまりのことに焦って、ローブのポケットから手の平くらいの大きさの木彫りの蛙を取り出すゼラの前で、魔獣がびくびくと体を痙攣させる。それに気を払う余裕もなく、ゼラは蛙に呼びかけた。


「アディ、説明してよ!」


 突然呼ばれて、大きく開いた蛙の口から映し出された紫の光沢を持つ銀髪の美女は、目を丸くする。

『どうしたの、朝っぱらから』

 眠たげなアディは、寝起きのようだった。

「護身用に付けとけって言った香水……」

 ゼラが話し出そうとした瞬間に、動けないはずの魔獣の体に刻まれた呪詛が眩い光を放ち、そのひょろ長い体躯が跳ね起きる。魔獣の長い手が伸びて、ゼラの手から木彫りの蛙を叩き落した。

『ゼラ!?』

 激しくぶれる立体映像のアディが叫ぶ声に、ゼラは答えることもできない。テーブルを乗り越えた魔獣がゼラの腕を掴んで、床の上に引き倒した。

 鋭く尖った爪がゼラのローブを引き裂き、シャツを毟り取る。

「ちょっと……で、できればこういうことは、順序を踏んでくれると、嬉しいんですけど!」

 自分でも何を言っているか分からないことを口走りつつ、ゼラは魔獣の毛皮に覆われた胸を押した。汗と脂の感触と、獣の放つ異臭に顔を顰めるゼラに構わず、魔獣はゼラの首筋に狼のような鼻先を埋める。

「ほ、ほら、私達ってまだ出会ったばかりですし……」

 半泣きになりながらゼラはズボンのポケットに手を突っ込んだ。そこには、親指くらいの大きさの水晶玉が入っている。

 中に魔方陣が封じ込められた水晶玉をつかみ出した瞬間に、魔獣の全身の毛が逆立って、飛び退るようにゼラの上から離れた。多少後悔しながらも、ゼラは魔獣に向かってそれを投げつける。

 ゼラの手を放れたとたんに、拡散する細い糸となった水晶の玉は、蜘蛛の巣のように魔獣を絡めとった。糸に動きを封じられた魔獣は、床に転がってのた打ち回る。

『ゼラ、大丈夫?』

 部屋の端まで転がった木彫りの蛙をゼラが拾い上げると、映し出されたアディは心配そうな表情で問いかけた。

「何とか……」

 ゼラの返事にアディは胸を撫で下ろし、普段通りの眠たく気だるい声で呟く。

『魔法に反応する呪詛みたいだね。魔法が使われている場所にいる限り、その子、命を削り続けるね』

 一目で見抜いたアディに感服しながら、ゼラはローブの前を合わせて嘆息した。


 魔法で生命の理を歪め、骨格から視覚、嗅覚、聴覚、触覚、果ては筋肉まで全て変質して強化させられている魔獣。それは人間には過ぎたる力を引き出されており、長期間その状態が続けば肉体がそれに耐えられなくなるだろう。

 魔法に反応して呪詛が発動している緊張状態を強いられた魔獣は、今も命を削り続けている。


「発動してる状態の呪詛を抜くなんて……無理。媒体である彼が、無事でいられるとは思えないよ」

『じゃあ、返せば良い』

 簡単なことのように言ったアディに、ゼラは目を剥いた。

 魔獣の体に刻まれた呪詛を抜いて無力化するのではなく、それを刻んだ魔法使いに跳ね返せと、アディは言っているのだ。そんな攻撃的なことが、ゼラにできるはずもない。何よりも、跳ね返しに失敗すれば、魔獣は数倍に増幅された呪詛を再び身に受け、確実に命を落すだろう。

「彼をここから出すのが一番じゃない?」

 正論を口走るゼラに、アディは苦笑した。


『依頼は、魔獣を助けることではなく、呪詛の出所を探ることじゃなかったの?』


 冷淡とも言えるアディの言葉に、ゼラは目を細める。

「助ける」

 意見も賛同も求めない強い口調に、アディは目を丸くした。それから、少し寂しげに微笑む。

『ゼラのそんな目、久しぶりに見たよ』

 ルヴィウスが死んでからただ惰性のように生きていたゼラが、こんなにはっきりと意思表示したことなど初めてで、それはアディにとって驚かずにいられないことだった。

「そんなの……あれ?そうだ、アディ、香水なんですけど……」

 一瞬、過去に気持ちが流されそうになって、ゼラは慌てて最初に聞きたかったことを口にする。

『あぁ、あれね』

 それに続く答えに、ゼラは頭を抱えた。


『媚薬☆』


 正確には、ゼラの体臭と混ざると、それを嗅いだものの脳内に、好意を持った時に分泌される脳内物質の分泌を促す、というもので、本来はゼラに対して敵意を持ちにくくする程度の軽い効果しかないその香水。

 しかし、嗅覚が何倍にも増幅された魔獣……しかも、理性を失った本能むき出しの魔獣に対しては、その効果は絶大すぎたのだと、ゼラは即座に悟った。

「な、何てものを……」

『ごめんね、そんなに効果があるとは思わなくて。いやぁ、若いって怖いよね』

 どこまでも明るいアディの物言いに、ゼラは濃厚な疲労を感じる。

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