第9話 魔法医の戦い方  2

 それは、まさしく恋だった。

 恐らくは、最悪の。


 柔らかいなめし皮のショートブーツに包まれた小さな足がこちらに近付いてくる。

 その足が何故裸足でないのか、魔獣は苛立った。

 最初に、あの嫌な臭いを纏った栗色の髪の魔法使いと共に、黒髪の少女が現れた時から、魔獣は高鳴る胸を必死に抑えていた。

 湧き上がる衝動は、他の魔法使いに対する殺意とは全く違って、それに魔獣は戸惑う。魔獣はそれでも確信していた。彼女が必ずや自分を解放してくれると。

 この手足が自由になれば……何十倍にも増幅された重力で地面に押さえつけられた体が解き放たれた暁には、魔獣のしたいことはすでに決まっていた。


 小さな体に纏う服を細切れに引き裂いて、膝を割り、その間に体を滑り込ませたい。あまり目立たない胸の肉を食み、抵抗する細い腕をへし折って、地面に繋ぎ止め、小柄な体付き相応に狭いであろう彼女の性器に自分の性器をねじ込みたい。

 柔らかく平坦な腹の肉を抉ると溢れ出る暖かな血は、どれ程に美味だろうか。痛みを恐怖に上げる声は、どれ程可愛らしいだろう。

 逃げられないようにつま先から膝までを引き千切って喰らってもいいだろう。噛み付こうとするなら、その唇は自分の口で塞いでしまえば良い。


 錘を乗せられていたかのような重みが消え、ぎこちなく顔を向けた時、彼女が不快な音を発したら、魔獣は躊躇わずに彼女に飛び掛ろうと決めていた。

 けれど、彼女の唇から零れ出たのは、柔らかな音。

「初めまして。私は、ゼルランディア」

 魔獣にはその言葉の意味が分からなかった。滑らかで柔らかな声は心地よく、魔獣にとってそれは初めて聞く響きだったので、魔獣は戸惑う。

「君は?」

 僅かに小首を傾げて魔獣を覗き込むのは、一対の黒い目。

 蔑みも恐怖も威圧も何もない、ただ静かで平静なその色に、魔獣は怯えた。

 彼女は自分を怖がらない。それどころか、彼女は自分を哀れんでいる。

 反射的に魔獣は逃げの一手を打った。

 壁に嵌めてある鏡の向こうに、魔法使いが二人控えていることは、強化された嗅覚がきちんと察知している。

 魔獣は、鏡を突き破り、隣室に飛び込んだ。



 隣室に消えた魔獣を追って、砕けて床に散るガラスを避けながら隣室に入り込んだゼラは、必死で叫ぶ。


「君と話がしたい!」


 今正に若い青年の魔法使いに掴みかかろうとする魔獣に、言えたのがそれだったことに、ゼラ自身もあまりにも間が抜けていると思った。けれど焦れば焦るほどに良い言葉は浮かばず、妙なことばかり言ってしまう。

 その部屋は、壁一面によく分からない機械が備え付けてあった。それらは魔法使いが見れば一目で、魔方陣を強化し調整するための機器だと分かる。

 机のように据えてあるその機械の一つを踏み砕きながら、機械を操作していた青年に腕を伸ばす魔獣。青年は恐怖のあまり全身が硬直し、逃げられないようだった。

「お腹が空いてるんじゃないかな。ここに来て何日くらい経ってるんだっけ?」

 そういう事態ではないと分かっているのに、暢気な声かけしか出来ないゼラに、部屋の隅に下がって呪文を唱え始めたイージャから鋭いツッコミが入った。

「世間話してる場合じゃないでしょ、目の前で人が食われそうになってるのに!」

 確かに彼女の言うことは正論なのだが、ゼラの物言いで魔獣の注意は青年から逸れる。その隙に悲鳴を上げて逃げる青年に安堵しつつ、ゼラは恐る恐る片手を前に出して魔獣に近付いた。

 魔獣はゼラの手をじっと見ている。


 小さな涙型のイヤリングが握られた手を。


「ご、ご飯でも食べて、お茶しません?って、私、ナンパしてるみたいですよね」

 必死に場を和ませようとゼラが乾いた笑いを添えつつやたらと早口に告げた瞬間、イージャが腕で空気を横薙ぎにしながら叫んだ。

「疾駆せよ、炎纏いし蜥蜴サラマンダー!」

 右後方から放たれた炎の矢が刺さる前に横に飛んで避け、魔獣は振り返る。その呪詛が更に濃く浮かび上がっているのを見て、ゼラは舌打ちをした。


 対魔法使い用の呪詛。

 魔法に強く反応を示すそれに、ゼラは確信を抱く。


 軽々と跳躍した魔獣がイージャの上に飛び降りるよりも先に、ゼラは手に握り締めたイヤリングを思い切り地面に叩きつけていた。

 ガラスの割れる音が響き、そこから噴出した膨大な薄紫の霧が部屋中に充満する。

「使いたく……なかったのに」

 少しして霧が晴れた時には、渋面になったゼラ以外、部屋の中で立っている者はいなくなっていた。

 唇すらまともに動かせぬイージャが床に倒れたまま、痺れる指先をふるふると揺らす。部屋の隅に逃げていた青年は床の上に突っ伏してぴくりとも動かず、魔獣に至っては、白目を剥いて伸びていた。

「ただの麻痺毒です。解毒剤さえあれば、すぐに治ります」

 魔法に反応する呪詛を纏ったものには、魔法で応戦すればするほど呪詛の影響が強く出て、力を増す場合が多い。だからこそ、薬剤を使ったゼラのような戦い方が有効とされる。

「授業料はいりませんからね」

 言いながら、もう一つのイヤリングを外し、涙型のガラスを捻って外し、それをイージャの鼻先に持っていくゼラ。

「魔獣を、別室に連れて行ってもらえますか?」

 続いて青年にイヤリングの中身を嗅がせるゼラに、ようやく立ち上がれるくらいに回復したイージャが非難の眼差しを向けてくるが、ゼラはそれを無視した。

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