第8話 魔法医の戦い方  1

 魔獣との対面の翌朝、ゼラはリュックサックの中にアディから送られてきた大量の薬瓶とウェディーから貰い受けた術具を詰めた。

 濃紺のローブを纏い、首にはチョーカーを巻いて、耳には涙方のイヤリング、ベージュのズボンに焦げ茶色のショートブーツという、昨日と変わらぬ格好をしてから、ゼラは化粧台の前に立って両手首に透明の瓶に入った薄水色の香水を吹きかける。手首を鼻に近付けても何も匂わないのを確認してから、ゼラはディーアの店を出た。

 通りはまだ薄暗く、石畳が朝露に濡れている。

「ティーに話を通してみるよ」

 昨夜、再び炎の中に消えながら、言ったウェディーの言葉を思い出し、ゼラは嘆息した。

 大陸最高位の魔法使い、ティーは八つの名前を持っている。『星の舟』の最高権力者でもあるティーは、『星の舟』で魔法使い同士の間から生まれた、生粋の魔法使いであり、一度も地上に降りたことがないという箱入りでもあった。


 今は六つ名になって『星の舟』の要となっている、双子の魔女……漆黒の肌に白髪のラージェと、純白の肌に褐色の髪のリンフィス。

 自由都市でのんびり暮らす五つ名の魔法使い、アディ。

 『星の舟』の最高位の魔法使いとなってしまった、ティー。

 リトラ共和国で自警団の手助けをしているウェディー。


 年が近かったために、『星の舟』で共に学んだ魔法使いたちを懐かしく思い出し、ゼラは目を細める。

 整えられた小さな箱庭だったが、ゼラの傍にはルヴィウスがいて、確かにあの頃は幸せだった。けれど、戻ることの出来ない過去に思いを馳せることを、ゼラはルヴィウスが死んで以来、自分に禁じていた。

 ルヴィウスとのことを知らなかったウェディーがゼラに求婚して、それに激昂したルヴィウスがゼラをつれて地上に降りたのが六年前のこと。

「そうか……私、二十六になるんだ」

 指折り数えてゼラは愕然とした。ルヴィウスとの婚姻から、もう十一年も経つ。

 ルヴィウスが死んでから三年……。何もすることがなく、それでも何かしていないと空虚すぎて息をすることすら出来なくなるような毎日の中、悲しみから逃げるように薬草学の研究に没頭していたゼラ。

 それまで人形のように動かなかった感情が、防波堤を崩すように流れ出て、それに翻弄され続けた三年間。あの嵐のような感情が胸中で再び吹き荒れそうになって、ゼラは慌てて思考を打ち切った。

 遠い幸福な日々は、ガラスケースの中に閉じ込められたように、もう触れることはできない。



「あのニレ・ルヴィウスの一番弟子様のお手並みを、じっくりと拝見させていただこうじゃない?」

 嫌な笑顔を浮かべたイージャの顔を見て、ゼラは反射的に踵を返して帰りたくなったが、なんとかそんな気持ちを抑えて屋敷の中に入った。歩を進めるにつれて、昨日よりも更に強い異臭がゼラの鋭い嗅覚を苛む。

「魔方陣を全て解除してもらいたいのですが」

 真っ直ぐに魔獣の部屋に行かず、隣室で監視している白衣を纏った魔法使いに声をかけるゼラに、イージャが目を剥いた。

「甘く見るんじゃないわよ。魔法陣を解けば、解き放たれた魔獣がこの屋敷を崩壊させるわよ?」

 目の端を吊り上げたイージャに、ゼラは緩々と首を左右に振る。

 アディに聞いた限りでは、『魔獣』に変化させる呪詛は、『対魔法使い用』であり、魔法に反応して発動している場合が多いらしいのだ。確かに、最初からあの魔獣の姿では、目立ちすぎて暗殺などできないだろう。


『皇帝ではなく、皇帝の正妃様……キエラザイト帝国の魔法騎士団の団長殿を殺すための魔獣の可能性が一番高いね』


 さらりと言たアディの言葉を思い出し、ゼラは苦い表情になった。

 皇帝の正妃は、先の皇帝の奥方の愛人にさせられて、無理やりキエラザイト帝国に引き抜かれた魔法使いで……その性別は男性だったとゼラも記憶している。

 強い魔法使いを国に留め置くことは、魔団法によって厳しい規制がつき、難しいので、先の皇帝と奥方が逝去した時点で、彼は自由の身となるはずだったのに、宰相が幼い皇帝の正妃として婚姻を上げさせてしまったがために、逃れられなくなったのである。

 男同士の婚姻など、愚かしいと『星の舟』からも抗議が来たはずだが、キエラザイト帝国政府はそれを握りつぶしてしまった。


 六つ名の魔法使い、サウス。

 その名は大陸中に知れ渡っていた。


「魔方陣を解かなければ、あの子を調べることもできません」

 その体に描かれた呪詛は、変化が解けてから出ないとしっかりと見ることは出来ない。見えなければもちろん、呪詛の元を知ることも出来ないと主張するゼラに、イージャは顔を歪めた。

「死にたいのなら、止めないわよ」

 片眉を上げてゼラは肩を竦める。

「私が死んだら、誰が呪詛を解明するんでしょうね」

 四つ名の魔法使い……しかも、攻撃系ではなく、呪詛に詳しい魔法使いなど、どこにでもいるわけはなく、いなくなれば困るのはイージャたち研究所の魔法使いということは分かりきっているのに、皮肉をたっぷりと交えて言うゼラに、イージャは険しい表情になった。

「好きにすればいいわ」

 吐き捨てるイージャの方を見もせずに、ゼラは魔獣のいる部屋の重い扉を開く。

 魔獣は昨日と同じ形でそこに存在した。

 汚物を垂れ流し、異臭を放ち、地面に押し付けられている魔獣。

 濁った灰色の目には、何も映していないようだった。

 時折苦しげに上下する腹だけが、魔獣の生存を伝える。

『魔方陣を解除するわ!』

 部屋の隅に据えてあった止まり木に止まったオウムの置物が、イージャの声で告げた。部屋の左側の壁の鏡はマジックミラーだろうと踏んで、ゼラはそちらを一瞥する。

 ゼラが魔獣に食い殺される様を、イージャはあの壁の向こうで期待しながら待っているのだろう。

 僅かに光を放ち、重圧の魔法で魔獣を地面に押さえつけているその魔方陣から、光が消えた。

 魔方陣に描かれた細かい文字一つ一つが解けて崩れ、空気の中に拡散する。

 重圧から開放されても、床の上で蠢く魔獣に、ゼラはそっと近付いた。変形した頭蓋骨は狼のそれとよく似ていて、乱食いの牙の間からは腐臭を放つ唾液が零れ落ちる。

「初めまして。私は、ゼルランディア。君は?」

 長時間に渡る拘束で強張った体を解すように、床の上でぎこちなく手足を動かす魔獣に問いかけた瞬間、魔獣がバネ仕掛けの人形のように跳ね起きた。

 魔獣に刻まれた全身の呪詛が禍々しく血赤に光り、魔獣は咆哮を上げる。

 反射的に左のイヤリングを外して握ったゼラを、魔獣は一瞥した。


 灰色の目に宿るのは、明らかな憎悪。


 ゼラが身構えるや否や、魔獣の細長い体が跳躍する。

「ま、待って!」

 思わず声を上げたゼラを完全に無視して、魔獣は真っ直ぐ左側の壁のマジックミラーに突進して行った。

 幾重にも魔法で強化してあるはずのガラスが、飴細工のように簡単に壊れる。

 隣室に飛び込んだ魔獣を追うゼラの耳に、悲鳴が届いた。

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