第20話 神の名前 3
「クラウス?」
呆れた様子で呟くイージャの声がゼラの耳に届く前に、ゼラはルインから引き剥がされてクラウスの腕の中に納まっていた。
「確保した!」
クラウスの一声を合図に、近くの建物の影からばらばらと若い魔法使いたちが駆け出てくる。
「なんのつもりですか?」
ゼラが腕から逃れようとして暴れるのに構わず、クラウスは片手を上げて他の魔法使いに指示をした。一人の若い魔法使いが走り出て、ルインの喉元に短刀を突きつける。ルインが低く唸ってその魔法使いに飛び掛ろうとするのを、イージャが止めた。
「駄目よ、魔法使いを傷つけたら、処刑されるわ」
魔法使いは稀少な生き物である。国に属する魔法使いを傷付けることは国家の損害として、厳罰の処せられることがキエラザイト帝国の法で定められていた。
「抵抗すると、魔獣を殺しますよ?」
言いながらクラウスは後ろから片腕をゼラの首に絡めて動きを封じ、もう片方の手でイヤリングとチョーカーを外していく。武装を解かれるゼラに、戦闘態勢に入ろうとしたルインを、ゼラが慌てて止めた。
「駄目です!何もしないで、ルイン!」
ゼラが動けばルインを殺される。
ルインが魔法使いに危害を加えれば、即座にサウスに伝令が走り、魔法騎士団が動いてルインを殺す。
八方ふさがりの状態になったゼラとルイン。
「何をする気?」
イージャすら事態が飲み込めず、クラウスに問いかける。
「彼女を、後宮に連れてくるようにという命が、下りました。宰相の君は、魔獣の呪詛を抜いた魔法使いを、皇帝の妾妃にお望みです」
クラウスの微笑みに、ルインが顔を歪めた。
「ゼルランディアを放せ」
「獣が喋るな」
冷たく言い放つクラウスの言葉に応じて、ルインの喉元に短刀を突きつけた若い魔法使いが、ルインの腹に蹴りを入れる。蹴られて蹲ったルインを、若い魔法使いは汚らしいものでも見るような目で見下ろした。
「やめなさい。あなた達の行為はキエラザイト帝国の魔法使い全体を名を貶めるものでしかないわ。どんな魔法使いにも、婚姻を強要することなど出来ないはずよ」
ルインの前に歩み出て口を開いたイージャに、クラウスが不思議そうに首を傾げる。
「サウス正妃が正当な方法で皇帝家に入りましたか?バッセル帝国のレイサラス家はどうですか?」
揚げ足を取るクラウスに、イージャは呆れた様子で額に手をやった。
「二つ名の魔法使い風情が、生意気に」
嘆息して魔法を編み始めるイージャに、ゼラが声を上げる。
「駄目です!ルインが、魔獣化します!」
近くで発動しかけた魔法の気配に、蹲ったルインの髪がざわざわと逆立った。諌められて詠唱を打ち切ったイージャを片手で押しのけ、若い魔法使いがルインの髪を掴み、その喉元に短刀を突き付ける。
「無理強いではありませんよ。ゼルランディア殿は、喜んで自ら来て下さいますよね?」
耳元でクラウスに囁かれ、ゼラは奥歯を噛み締めた。これ見よがしにルインの喉元に突きつけられた短刀が、鈍い光を放っている。
魔法使いは言葉を扱う職業。
その口から出た言葉は、すなわち契約となる。
「私は……」
「下衆ね」
ゼラの言葉を遮って、イージャは両手を合わせるようにして呪文を唱え始めた。その発動に伴ない、ルインの体が細かく震え、全身が毛皮に覆われてくる。
「やめなさい!ルインが!」
ルインの変貌に怯えて短刀を押し付けようとした若い魔法使いの手は、ルインの手によって止められた。短刀の刃を握り締め、ルインは濁った目で若い魔法使いを見つめている。滴り落ちる血の鮮やかさに、ゼラはぞっとした。
「魔獣が魔法使いに逆らった。殺せ」
クラウスが片手を上げると、周囲に集まっていた魔法使いたちが次々と魔法を編み上げる。編み上げられた光の矢が、何本も何本も、ルインに向かって放たれた。
「キサ・イージャ・タイス・ツァオラの名において、この場を絶対の安全領域とする。全ての敵意・殺意・悪意ある魔法の存在を私は認めず、許さない」
イージャが合わせた手を頭上に持ち上げ、両腕を広げると、その間から薄緑の光の障壁が現れ、即座に広がる。それに触れた瞬間全ての光の矢が消え失せた。
光の障壁の中で、べきべきと骨を歪める生々しい音が響いている。短刀の刃を握り締めたままの格好で、ルインは獣の姿に変わりつつあった。
「戦ってはいけない!逃げて!」
クラウスの腕の中で暴れて、思い切りその腕に噛み付くゼラを、クラウスは思わず振り払う。ゼラの小さな体は簡単に吹っ飛び、街灯に思い切りぶつかった。
鈍い音がして、ゼラはその場に崩れ落ちる。
それを視界に納めた瞬間、魔獣の姿になったルインは、跳躍していた。ルインがゼラを確保するよりも早く、クラウスがゼラの小さな体を担ぎ上げてしまう。ぐったりと垂れ下がるゼラの頭には、血が滲んでいた。
それを目にした時に、ルインの理性が消え去る。
音もなく飛び上がった細いルインの体が、クラウスの眼前に降って来た。構えを取ることも出来ないクラウスの腕からゼラをもぎ取り、ルインは鋭い鍵爪の生えた手で、無造作にクラウスの顔面を掴む。
骨が軋み、砕ける音。
悲鳴を上げることすら出来ないクラウスの体をルインは石畳の上に投げ出し、片手をその下腹部に突っ込んだ。そのまま手を上に移動させていくと、鮮やかな血が噴出し、どろどろと内臓が流れ出す。
「クラウス!?」
止める間もなく一瞬で起こった惨劇に、イージャが悲鳴を上げた時には、すでに全てが終わっていた。
全身に返り血を浴びた魔獣と、その肩に担がれたゼラ。
そして、石畳の上には絶命寸前のクラウス。
「凍り付け。全て時よ凍り付け。巻き戻れ、何もかも」
ばらばらと若い魔法使いたちが逃げ出す中、必死でイージャが治癒を促す魔法を唱えるが、それも僅かな出血を止めた程度で、最早役に立たない。
ルインの肩から滑り落ちたゼラが、霞む目を開ける。
その時には、全てが取り返しがつかなくなっていた。
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