第21話 神の名前 4
ゼラは目の前に広がる光景を見て、即座に、自業自得だと悟った。
けれど、その上で、できることを選ばなければならない。
イージャが必死で抑えているが、クラウスが助からないことなど、ゼラには一目見ただけで分かった。ふらつく足を叱咤して、ゼラはクラウスの傍に近寄る。
治癒の魔法は本人の生命力を高めるものなので、損傷が酷く、元々の生命力が失われてしまえば、どうしようもない。時間を逆回転させたところで、すぐに元に戻ってしまう。灰や土で模造品を作るには時間が足りないし、作ったとしても数日しかもたない。
ルインは恍惚とした表情で、血に濡れた自らの手を眺めていた。
その表情に愉悦が滲んでいることすら、ゼラは憐れまずにはいられない。
――俺は魔獣だ。今更人間になんか、戻れない。
自らが口にした言葉を、ルインは今正に、実感していた。
「あなたを、魔獣のままに死なせるわけには、いかない……」
呆然と呟き、ゼラは自分の小さな手を見る。白い手にはどこでついたのか、紅い血飛沫が飛んでいた。
ゼラは震える唇で呪文を紡ぎながら、振り上げた手をまだ浅く呼吸しているクラウスの喉元に下ろす。
「剣を降ろせ、風の乙女シルフィード」
烈風がクラウスの喉を切り裂き、高く上がった飛沫がゼラの頬を濡らした。その紅い血は、ゼラの涙でも押し流すことができない。
「あなた……」
まさかゼラが手を下すとは思わず、対応も出来なかったイージャが、目を見開いて呟くのに、ゼラはほんの一瞬前までクラウスだったものの傍に座り込んだまま、泣き顔で告げた。
「魔法使いは殺しあうもの……私が、殺しました。見ていたでしょう?」
立ち上がることも出来ず、座り込んだままに涙を流すゼラを、魔獣が不思議そうに見つめている。その姿で言葉が通じているのか、理解できているのかは分からなかったが、ゼラは真っ直ぐに前方を指して命じた。
「逃げなさい。キエラザイト帝国から出るんです。シーマ・カーンに行けば、私の知り合いの魔法使いがいます」
その語尾をかき消すように、巨大な影を地上に落としながら『星の舟』が風を切って近付いてくる。それよりも早く、漆黒の馬くらいの大きさの竜が、帝都の中央にある王城から、家々の屋根を伝い夜闇を切り裂いて走ってくるのが、ルインの獣の目には見えた。
――ゼルランディア。
そう呼びたいのにルインの口から出るのは獣の唸り声だけ。
「キエラザイトの魔法使いを殺して、タダで済むわけないわ」
こうなった以上、ルインを逃がすわけにはいかないと魔法を編み始めるイージャだが、頭上に指した黒い影にはっとして詠唱を止めた。
イージャの家の上に、馬くらいの大きさの細身の竜が乗っている。その背には、黒いサーコートを纏った人物が乗っていた。
漆黒のサーコートに、褐色の肌、細かく編まれた肩までの黒い髪、切れ長の物静かな黒い目。
腰に下げた大剣と鍛え上げられた長身。
魔法使いというよりも、騎士というべきその人物の胸には、空色の三つのひし形を組み合わせた花と、白い月と雫。
静かな黒い切れ長の目を見た瞬間、ルインは全身が総毛立つ。
理屈ではなく、本能が告げていた。そこにいるのは恐ろしい化け物だと。
ルインのように人によって作られたのではない、生まれながらの化け物。
キエラザイト帝国皇帝正妃、サウス。
膝をつき頭を垂れたイージャに視線すらもくれず、竜にまたがったまま屋根から飛び降りたその男は、石畳の上でようやく竜から降りた。漆黒の竜はサウスが降りるとすぐにその影の中に溶けて消える。
「ゼルランディア?」
低く通りの良い声で名を呼ばれて、ゼラは血塗れの手をサウスにかざして見せた。
「私が、殺しました。裁きは受けます」
ゼラの前に片膝をつき、サウスは細かく震えるゼラの小さな手を握る。
「キエラザイトに、囚われると?」
冴えた夜空の下、凛と響くサウスの声に、ゼラは小さく頷いた。
「彼は、関係ありません。彼は、もう必要ありません。そうでしょう?」
頬をぬらす涙もそのままにサウスに顔を向けるゼラを、サウスは軽々と片手で担ぎ上げる。
四つ名の魔法使いと、魔獣。
それを天秤にかければどちらが傾くかなど、分かりきっていた。
減った魔法使いは補充されなければならない。
魔獣の姿のまま高く吠えたルインが何を言いたかったのか、ゼラは知ることが出来ない。
声の主に一瞥をくれたサウスの視線の先で、ルインは石畳の上に倒れて意識を失った。
「キサ・イージャ・タイス・ツァオラ、彼をキエラザイトの外へ」
静かに告げ、サウスはゼラを担いだまま、自らの影より出でた竜に乗る。
その後を追うことなど、イージャには出来なかった。
国外追放を言い渡されたルインが、キエラザイト皇帝の新しい妾妃の名前を聞くのは、厳重に拘束されて『星の舟』経由でシーマ・カーンのアディの元に連れて行かれた後のこと。
――ルイン、あなたの名前は、水の神様の名前なんですよ。あなたのご両親は、あなたがどこに行っても水の加護があるように、その名をつけたんですよ。
彼女の伝えたかった言葉が、ルインに届くことはなかった。
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