幕間
第22話 古国の王
『月の谷』には、魔法使いはいない。
大陸最南の辺境の小国、『月の谷』。その出身の者は皆、剣技や体術に優れていて、例外なく褐色の肌を持っている。
両親が大陸のどこの生まれであろうとも、『月の谷』で生まれたものは皆、月の聖霊の洗礼を受けた時点で、艶やかな褐色の肌を持つようになるという。事実、『月の谷』出身者以外で褐色の肌を持つ人間は、この大陸にはいない。
また、『月の谷』では魔法使いは生まれたすぐに追い出されて洗礼を受けられないという掟があった。それは、魔法使いの訓練機関である『星の舟』に対し、魔法に頼ることなく己の腕で戦う兵士の訓練機関として、『月の谷』が発足し、月の聖霊にその信仰を捧げることを誓い、大陸最南端の地に国を作ったことに由来する。
故に、『月の谷』には魔法使いはいない。
褐色の肌を持つ魔法使いは存在しない。
と、言い切れるはずだった。
十四歳のルヴィウスがその人物に出会った時、彼は生成りの神官衣を纏っていた。切れ長の金色の目と少し癖のある長い黒髪。褐色の肌で長身の男は、顔立ちが整っていて、体付きも引き締まってよく鍛えられている。
動くたびに響く衣擦れの音に、ルヴィウスはどれ程彼が剣術に優れているかを知った。
「魔法使いを……『月の谷』の王が、まさか、魔法使いを雇うとは、思いませんでした」
正直な感想を述べる黒髪に白い肌の少年のルヴィウスに、男は冷たく整った顔に似合わず豪胆に微笑む。
「必要ならば魔獣だって雇うさ」
低いが良く通る声に、若さはない。ルヴィウスは目の前の三十歳前後の男が外見よりもずっと長く生きていることを思いだした。
その理由を誰もが薄々感付いていたが、目を反らし続けている。
「あなた自身が魔法使いだという噂も御座いますが……ユナ・レンセ王?」
閉鎖的な小国であった『月の谷』を開放し、繁栄をもたらしたと言われる、ユナ・レンセ王。二十九で即位してからすでに二十年はたつはずなのに、彼の姿は即位の時に描かれた肖像画と全く変わりがない。
「俺が?ご冗談を。ただの若作りだよ、若作り。じい様が無理しちゃってと、笑って下さいな、お坊ちゃん」
彫刻のような人間味のない美貌を台無しにするように、軽い口調で言うユナ・レンセ王。
「じい様と言うようなお年ではないでしょう?」
「十四のお坊ちゃんからすれば、じい様だよ。過去の遺物って奴だ」
言葉一つ一つがリズムを持ち、歌うように喋る彼は、ルヴィウスよりもずっと魔法使いらしい。けれど、ユナ・レンセ王は月の聖霊の加護をこの世界で一番強く受けている、と言われていた。
その証拠が、濃い蜜を流したような褐色の肌と、輝く金色の目。そして、自他共に認める、大陸一の剣の腕。
王族が神の名を尊称として持つこの大陸で、呪われた狂神、ユナの名を持ち、狂戦士とまで呼ばれるユナ・レンセ王。
彼には王族ならば必ず持たねばならないはずの、妻も子もなかった。
「お幾つになられたんですか?」
「三十二」
迷わず即答するユナ・レンセ王に、ルヴィウスが眉根を寄せる。彼の即位二十周年祭は、ルヴィウスの記憶にも新しかった。単純に計算して、彼は五十を超えているはずである。
「若作りだけでなく、サバ読み、ですか?」
「そう。俺、年取るのやめちゃったから」
くすくすと笑う彼は自己申告の年齢よりもずっと若く見えた。けれどその金色の目は、実際の年齢よりもずっと枯れている気がする。
「三十二歳のユナ・レンセ王が、十四歳のお坊ちゃんに、どんな仕事の依頼ですか?人払いまでして」
揶揄されても怒ることなく静かに問いかけたルヴィウスに、ユナ・レンセ王は眉を上げてファニーな表情を作る。美貌を台無しにすることに命を懸けているのかこの人は、とルヴィウスは心底呆れた。
ルヴィウスもまた絶世の美少年に違いないが、ユナ・レンセ王のように成熟した男の魅力は持ち合わせていないし、恐らく一生涯持ち合わせることはないだろう。
簡素な服装に飾らぬ態度なのに、目が離せなくなる、圧倒的な存在感。
魔法使いのほとんどは魔法のみに特化して体力面が劣るのが一般的で、ルヴィウスも正にそれに添った細腕の美青年に育つのだろうと自覚していた。
だからこそ、この男の生命力に息を飲む。
「俺を、殺してもらおうかと思って」
笑顔でそんなことを言ったユナ・レンセ王に、ルヴィウスは眉根を寄せた。『星の舟』の魔法使いが全て揃っても、この男を殺せる確率は五割を超えないだろう。
「不可能ですね」
「形だけでいいんだ」
ユナ・レンセ王は地味に結われた長い黒髪を解きながら、にっこりと微笑んだ。白い神官服は、死に装束。
「『月の谷』に王は不要だ。妹はキエラザイトに、姉はバッセルに嫁したし、俺の後を継ぐものはいない。俺はね、『月の谷』こそ、民が治めるべきと思うんだ」
「王位に飽きたんですね」
ずばりと指摘されて、ユナ・レンセ王はしなを作った。
「いやん、本当のことを言われちゃうと、ユナ、悲しい」
「気持ち悪いので、やめて下さい」
冷ややかなルヴィウスの目に、ユナ・レンセ王はやれやれと肩を竦める。
「動揺しない坊やだね。ま、いいや。そういうわけで、遺書は用意してるから、俺を殺してほしい」
面倒くさそうに片手で長い髪を梳きながら、ぞんざいに言うユナ・レンセ王に、今度はルヴィウスがため息を付く番だった。
その夜、『月の谷』のユナ・レンセ王は、自ら命を断った。
遺書には『月の谷』の王位は誰にも譲るべきではない、と書かれていた。
そして、彼は『月の谷』の最後の王になった。
「どうして、俺だったんだ?」
魔法使いかどうかを一度正式に調べた方がいいと、繰り返し続けて五十年以上経ってから、ふらりと『星の舟』に現れた褐色の肌の男に、ルヴィウスは問いかける。
男は黒い目を細めた。
あの日、ルヴィウスは精巧な身代わりの人形で、ユナ・レンセ王の死体を作り上げた。
ユナ・レンセ王は髪を切り、目の色を変えて大陸近くの小島に逃れた。
「若い魔法使いの方が、長く一緒に遊べるじゃないか」
にこにこと言う彼は、相変わらず冷たい美貌を台無しにしている。そして、その美しさは出会った時から何一つ変わっていなかった。
「幾つになった?」
問われてルヴィウスは指折り数える。
「七十二か……レンセ王は?」
「王じゃない、今は、サウス・セゼンと名乗っている」
訂正されてルヴィウスは仕方なく言い直した。
「サウスは?」
その問いかけに、サウスはかつてと寸分違わぬ表情で答える。
「三十二」
「見事な若作りだな……」
ルヴィウスは呆れ返った。
「キエラザイトで不穏な影が動いてる。俺の愛した妹の血脈だ。助けに行きたい」
そのために力がほしいと、サウスは『星の舟』の門を叩いた。
ギド・セゼン・サウス・レフィグル・ダイス・レンセ。
後にそう呼ばれる魔法使いは、『月の谷』出身者というだけでない圧倒的な存在感で『星の舟』に五年滞在した。
それから、キエラザイト帝国の皇帝の正妃の愛人という形でキエラザイト帝国皇帝家に入り込む。
やがて、彼は幼いキエラザイト皇帝の正妃になる。
何の事情も知らぬ者たちが、彼を哀れみ、不幸の代名詞と呼んだ。
けれど、ルヴィウスはその不幸が何たるかを知っていた。
時間に見捨てられ、国を捨て、己すらも捨てたはずなのに、結局国のごたごたに巻き込まれる彼。
彼の一番の不幸。
それは、己を不幸だと思えないことと、ルヴィウスは評す。
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