第33話 アディラリアと双子の魔女  5

 椅子から立ち上がったルインが部屋から出て行こうとするのを止めたのは、リンフィスだった。

「食事は終わった」

 空の皿をちらりと見てぶっきらぼうに言うルインに、リンフィスが歩み寄り、小首を傾げる。

「逃げるの?」

 リンフィスの笑みはぞっとするほど愛らしく、ルインは目を逸らすこともできなくなった。柔らかな小さな手が、ルインの顎をなでる。

「俺は人間だ。あんたら魔法使いとは違う」

 二年前に一瞬だけ見た褐色の肌の魔法使いを思い出すだけで、ルインは背筋が寒くなってきた。理屈ではない。あの魔法使いは存在自体があまりにも異質で計り知れない。あんなものを相手にして戦えるとは思えなかった。

「僕たちとアディの違いは、なんだと思う、幼き魔獣よ?」

 すっと立ち上がったラージェに問いかけられて、ルインは眉を顰める。魔法使いの違いなど、魔法使いではないルインには全く分からなかった。

「ゼラとアディは選ばれた、私たちは選ばれなかった。つまりは、私たちは王様ユナ・レンセにとって価値がなかったってことね」

 ぴんと人差し指を立てるリンフィスに、食器棚に寄りかかって俯いていたアートがようやく顔を上げる。その暗い紫の瞳は、ルインを見据えていた。

「私は別に、キエラザイト帝国の皇帝のところでも、ゼラが幸せなら構わないのよ。でもね、あなたは納得していない」

 リンフィスの紅い目が淡く光りだすのに気付いて、目を逸らそうとした時にはもう遅く、ルインは動けなくなる。呪詛を発動させてでも逃げようと思うのに、それすら反応しない。

「あなたの体には、ヴィルセリスからサウスへのメッセージが刻まれてるかもしれないわ。見せてくれる?」

 淫靡な手つきで腹を撫でてくるリンフィスの手を拒む術がなくて、ルインは視線だけでアートに助けを求めるが、アートはただ暗い目でこちらを見ているだけだった。いや、ルインの向こう側の何かを見ているかのように、アートの目は焦点があっていない。

 つまりは、酔っ払っているのだろう。


「時間がない……キエラザイトの帝都に『星の舟』が落ちる」


 音もなく近付いてきたラージェがリンフィスに手を貸そうとするのを、ルインは指一本動かせないまま、ただ見ているだけしかできなかった。シャツを捲り上げられても声すら上げられない。

「サウスの思惑が分からない限りは……」

 真面目な表情でルインのシャツを剥がす双子。

 その手を止めさせたのは、リィザの怒鳴り声だった。


「やめて!ルインを苛めないで!」


 割って入ったリィザは、小さな体でぶら下がるようにしてリンフィスの腕を止める。続いて歯を鳴らしてラージェを牽制した。

「もう、わけ分かんない……アディはどこなの!やだよ、こんなの……知らない人はいっぱいだし、ルインは怖い顔で……アディはどこなの?アディ……」

 ぐすぐすと鼻水を啜り、涙を零し始めたリィザに、ラージェが怯んでリンフィスを見る。リンフィスは舌打ちして、リィザの顔を両手で掴んでその目を覗き込んだ。

「いい子だから、しばらく静かにしていてね」

 紅く光る目を見てリィザは悲鳴を上げる。


「怖いー!怖いよー!アディ!アディラリア!!!」


 刹那、何かが弾けるような音が聞こえた。

 ふっと顔を上げたアートの髪が、漆黒から紫の光沢を持つ銀に変わり、平坦で鋭利な体付きが柔らかく優美なものへと変化する。

 食器棚から離れてゆったりと歩いてきた美女……アディラリアは優美に微笑んでリンフィスの肩に手を置いた。

「どういうつもりか、分からないけど、私の弟子に手を出すのはやめてもらおうかな」

 凛と響く声は柔らかく優しい。けれど拒否を許さぬ調子に、リンフィスは忌々しそうにアディラリアを睨み付けた。

「あのまま、眠っていてくれたら良かったのに」

「残念ながら、万年不眠症でね。さて、おいで、リィザ、ルイン」

 白い片手が優美に招くと、体が動くようになったリィザとルインが慌ててアディラリアの傍に駆け寄る。

「『星の舟』が落ちると、ティーが予言したわけだね。そうか……とうとう、時が満ちたんだね」

 泣き出したリィザを抱き寄せて、ルインを自分の背に押しやり、ため息を付くアディラリアはこの上なく悩ましく色気があった。けれどその色香に惑わされるものはこの場にはいない。

「酔うとつい、口が軽くなっていけないね。さて、お引取り願おうかな」

 片方の手でリィザを抱き締めたまま、片手を掲げ、呪文を紡ぎ始めたアディラリアに、ラージェとリンフィスは顔を顰めた。

「アディ、教えて欲しい!サウスは何を企んでいるんだ?どうすれば『星の舟』を落さずにすむ?」

 ラージェの問いかけに、アディラリアは緩々と首を振る。

「それは、サウスが自ら語る……その時まで明かせない」

 紡ぎ上げた魔法陣が中空に広がり、それにラージェとリンフィスは飲まれた。

「アディ、私たちは、あなたの助けになりたいの……」

 伸ばされたリンフィスの手も、アディラリアに届くことはなかった。


 双子の魔女が消えた後、やっと泣きやんだリィザの背を撫でてから、アディラリアは何事もなかったかのようにテーブルに戻って皿を片付け始める。

「ルイン……ゼラって……」

 誰?と聞きたかったはずなのに、あまりに暗いルインの表情にそれ以上何も言えず俯いたリィザの頭を、ルインは大きな手で撫でた。

「……さっきは、助かった」

 それだけ呟いてさっさと部屋から出て行くルイン。しばらく考えてから、自分が礼を言われたことに気付いて、リィザはアディラリアを見る。アディラリアはテーブルの上を片付ける手を止めて、ほんのりと微笑んだ。

「呼んでくれて、ありがとう、リィザ」

 アディラリアにまで礼を言われてリィザは真っ赤になる。

「アディ、『星の舟』が落ちるの?」

 そっと歩み寄ってアディラリアの顔を見上げると、アディラリアはちょっと困ったような表情になった。


 これから色んな国の先見の魔法使いたちが、次々とその予見を公開するだろう。八つ名の魔法使いであるティーの先見の能力は、それほど強いものではないので、それよりももっと先見に特化した者たちが、詳細を述べていくかもしれない。

 『星の舟』は浮かぶ城であり、一つの都市であるから、それが落ちればどれ程の被害が出るか、想像に難くない。恐らく、キエラザイト帝国の帝都に落ちれば、その周辺も巻き込んでキエラザイト帝国の半分近くが壊滅するだろう。


――キエラザイト帝国に『星の舟』が落ちる。その前に……。


 もう十年以上前のサウスの言葉が脳裏をよぎって、アディラリアは苦笑した。

「させないよ、そんなこと」

 アディラリアが安心させるように言うと、リィザが胸を撫で下ろす。リィザの細い体をアディラリアはそっと抱き締めてやった。

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