第47話 アディラリアと名無しのルイン  2

「ルイン?」

 リィザに名前を呼ばれて、ルインは我に返る。経験したことのないはずの記憶が、堰を切ったように流れ出して、ルインは息も出来ないほどに混乱していた。背中は冷や汗でびっしょりと濡れている。

「ルイン……?」

 それは誰の名前だろうと考え、ルインはすぐにそれが自分の名前だと気付いた。遠い遠い昔に、自分が呼ばれていた名前。

 忌むべき、名前。

「アディ……アディラリア!くそっ……ここはどこなんだ!」

 苛立たしく頭を掻き毟り、ルインは歯噛みした。

 何故自分がこんなところにいるか、分からない。

「ルイン、どうしたの?大丈夫?」

 リィザとアディラリアとエルグヴィドーが部屋を出てから、かなりの時間が経ったはずだった。けれど、ルインはその時間すら感じていない。それどころか、今がいつなのかも分からなくなっていた。


「ルイン……それが、私の名前か?」


 酷く硬い声で問いかけられて、リィザは眉を顰める。それは今までのルインのものとは全く違っていて、まるで老人のもののようだった。

 部屋の隅では、あの紅い髪の少年の姿の魔法使いが、訝しげな視線をずっと向けてきている。少しでも妙な行動をすれば、ルインを始末するつもりで、彼……いや、彼女はずっとルインを静観しているのだろう。

 ルインはがりがりと頭を掻き毟りながら、彼女、ウェディーに鋭い視線を向けた。


「ティエット……それに、エルグヴィドー……アディラリア……何が、起きているんだ……」


 名を呼ばれ、ウェディーは驚きに目を丸くする。

 テュール・ティエット・ヴァーソロミュー・ウェディー。

 その長い長い名前の中で、彼女は「ウェディー」と呼ばれることを好んでいるので、周囲は自然とその名前を呼ぶようになっていたが、彼女が生まれた時に付けられた名前はティエットであり、その女性名を呼ぶのは親しい親戚と嫌味なアディラリアとゼルランディアの師匠くらいだった。

「何を、言っているんだ?」

 アディラリアを担いで部屋に戻ってきたエルグヴィドーの存在すら目に入らず、ウェディーは思わずルインに駆け寄る。ルインの灰色の目は酷く虚ろで何も見ていないようだった。

「分からない……なんで、私がここにいるんだ……。ユナ・レンセ王!どこにいる!でて来い!ゼルランディア!どこなんだ!」

 ヒステリックな叫びに、息を飲んだアディラリアが、エルグヴィドーの耳に顔を寄せて問いかける。

「エルグ……ルインは、作られて、何年くらい、なんだ?」

「五年以内と、報告書にはあった」

 ルインの動揺も全く気にしていない様子で、エルグヴィドーはアディラリアをそっと床の上に下ろした。アディラリアはぶつぶつと呟きながら指折り数える。

「五年……」

 五年前……ゼルランディアの夫の葬式をアディラリアは思い出していた。


 あの日、ウェディーと共に葬式に参列したアディラリアは、老人に足をかけて転ばせた魔法使いを、微笑みながら「アートにお出まし願おうかな?」と呟いて威嚇し、退けた。

 あの魔法使いは、ヴィルセリスではなかっただろうか。

 そして、彼は不気味に微笑んではいなかっただろうか。


 トノイ・タージャーン・ヴィルセリス・ロクシャーナ。


 ルヴィウスと師匠を同じくする、呪詛使い。

 彼は二年前に死んでいる。

 彼はサウスに並々ならぬ執着を見せていたというが、それが憎しみであったことをルヴィウスは見抜いていた。そして、再三、その憎しみを向けるべき相手はサウスではないと、告げていた姿を、『星の舟』でアディラリアもよく目にした。

 バッセル帝国の魔法使いとなったヴィルセリスは、死ぬ前に何を作ったのだろうか。


 アディラリアはその答えが、分かってしまった。


「ルヴィウス?」


 問いかけに、ルインは緩慢な動作で振り返る。

 そして、酷く悲しげに微笑んだ。


 死なない呪いのかかったサウスを殺せる相手。

 幾度もかけた呪詛を跳ね除け、生き続けるサウスを殺す方法。

 ヴィルセリスの思いついた唯一つの方法。

 それは、ルヴィウスとサウスを対立させること。

 そして、ルヴィウスにサウスを殺させること。


「……説明してくれ」

 長く息を吐き、乱れた髪をかき上げたルインは、顔立ちこそ違ったが、その表情は親友の夫であり師匠である、死んだはずの男のものだった。


「本当に、ルヴィウス、なのか?」

 呆気に取られた表情で、ウェディーが逃げるようにルインから離れる。ルインは癖のない灰色の髪をかき上げ、目を細めた。

「ゼルランディアもかわいそうに……折角、老人の世話から開放されたかと思ったら、もう一度、私などを助けて、キエラザイト帝国に囚われるなど……」

 両手で顔を覆うルインの呟きに、計り知れない後悔と悲しみが含まれていて、ウェディーは言葉を失う。

 それならば、ルインが一目でゼルランディアに惹かれ、ゼルランディアがルインを捨て置けなかった理由全てに説明が付いた。

「それでも、私は……あの男を憎むことなんて、できないのに……」

 嘆くように漏らした呟きに、アディラリアは思わずルインの傍に来る。見上げてくる紫の目に、ルインは両手を顔から外し、僅かに微笑んだ。

「ルヴィウス、あなたは、王様ユナ・レンセの企みを、全て、知っているんだね?」

 その問いかけに答えず、ルインはアディラリアのベッドまで歩いていってそこに腰掛ける。長い足を少し開いて、その上に肘を置くルインの姿が、ルヴィウスのそれと重なる。ルヴィウスは顔の右半分が醜く崩れていたが、もう半分は息を飲むほど整っていた。その美貌と、ルインのごく平凡な顔とは、少しも似ていない。

 けれど、ルヴィウスが望んだのはこんな平凡な姿だったのではないかと、アディラリアは思う。美しさなど、彼は求めていなかったのだ。


「サウスは……彼は、ユナ・レンセ王、本人だ」


 ユナ・レンセ。

 『月の谷』の最後の王。

 生まれながらに視力が低かったが、失明したことにより、自分がもう戦えないと悟って、自ら命を断ったとされる彼は、幾つもの武勇伝を持つ狂戦士だった。

 『月の谷』の民にとって、剣を折ることは死ぬことと同じ。

 それを体現してみせたユナ・レンセ。

 彼が死して後、『月の谷』は共和制となった。


「ユナ・レンセ王は、死んだはずでは?」

 エルグヴィドーの問いかけに、ルインは緩々と首を振る。

「狂言だ」


 その仕掛けに、少年だったルヴィウスは手を貸した。それ以来、ルヴィウスとユナ・レンセは交友を深めていった。

 ルヴィウスはユナ・レンセに請われて、自分の師匠を彼に紹介した。

 それが、ゼルランディア……レイサラス家の当主の妹だった。


「レイサラス家の、魔法使い!?」

 アディラリアがエルグヴィドーを見ると、エルグヴィドーはこめかみを指で突いて記憶を引き出す。

 エルグヴィドーの前のレイサラス家の当主はケイラ。その妹は確か、ゼルランディアという名前だったが、かなり若くして死んでいる。

「そう、レイサラス家の魔法使いだ。そして、バッセル帝国に隠された、炎の剣の継承者」

 ルインの言葉に、アディラリアは息を飲んでウェディーを見た。ウェディーは硬い表情でルインをじっと見つめている。

「ゼルランディアの死後、その剣はバッセル帝国の皇帝に返されたが……それをティエットが継承した。そうだろう?」

「国家機密をべらべらと喋るな!」

 吐き捨てるように怒鳴りルインに殴りかかろうとするウェディーを、エルグヴィドーが止めた。

「『赤剣』の守護者が、何故、リトラに?」

 責める口調のエルグヴィドーに、ウェディーは眉間に皺を寄せる。

「うるさい!顔を見るたびに『結婚』しか言わないような連中の国など、住みたくもないわ!」

「そういう問題ではない」

 冷ややかに告げるエルグヴィドーに、アディラリアは瞬きをして幾つかの話を脳内で整理した。

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