第46話 アディラリアと名無しのルイン 1
「ゼルランディア……」
ルインの呟いた言葉に、一同は揃って怪訝そうな表情になった。ルインすらも、なぜその名前が口と付いて出てきたか、分からないという表情をしている。
気まずい沈黙は一瞬で破られた。
玄関の扉が乱暴に叩かれる音に、一番に反応したのはアート。素早く窓際に駆け寄った。
ルイン、ウェディー、エルグヴィドー、リィザ、そして、アート……異様な顔ぶれが揃った二階のアディラリアの寝室まで、玄関先の客の声は届いてくる。
「アディラリアさん、どうか……うちの子がすごい熱で……」
取り乱した女の声に、アートは息を飲んでエルグヴィドーに視線を投げた。エルグヴィドーは即座に両腕を広げてくれる。アートは躊躇いなくその腕の中に飛び込んだ。
柔らかな抱擁とともに、一瞬、青白い火花が散って、アートの漆黒の髪が淡い紫の光沢のある銀髪に変わる。平坦な胸が柔らかく曲線を描き、吊り上がった眦が憂いを帯びて下がった。
僅かに眉を顰めて目を伏せたアディラリアの色気に、ルインは顔を顰める。けれど、それすら視界に入らない風情で、アディラリアはエルグヴィドーの胸を押して体を放し、廊下に駆け出ようとした。エルグヴィドーは素早くその細い手首を掴んでそれを止める。
「リィザ、戸を開けてご婦人を部屋に入れて差し上げて。アディ、その格好で行くのはまずい」
言い終わるよりも先に、戸棚に駆け寄って適当なシャツとズボンを引きずり出すエルグヴィドーに、アディラリアは自分のローブの胸元を見下ろした。そこは乾き始めた血で茶色く汚れている。
躊躇いなくローブから腕を抜くアディラリアの足元に、ぱさっとローブが落ちた。ショーツしか身に着けていない白い体が露わになる。
同性で子どものリィザですら、その見事な体付きに目を奪われた。しかし、その豊かな胸には今もまだ血の滲んでくる大きな爪痕がある。
「見せかけだけでも、どうにかしないと、か」
うんざりした様子でアディラリアが白い胸元を撫でると、新しい皮膚が盛り上がり、傷口を塞いでいった。完全に治したわけではないのであろうその傷は、ピンク色に盛り上がっている。
「リィザ、お願い」
アディラリアに促されて、リィザは慌てて廊下に出て階下に向かった。アディラリアはエルグヴィドーの手渡す服を素早く身に着けていく。
まず細身の黒いズボンをはいて、瀟洒なフリルの付いたキャミソールを着て、シャツを纏いながら廊下を歩くアディラリア。シャツのボタンを留めながら階段を降りるアディラリアに、後ろからエルグヴィドーが靴を持って追いかけてきた。
廊下で先回りされて足元に靴を置かれ、それを履いている間に小さな花を閉じ込めたようなガラス細工のイヤリングを手渡され、それを付けるとアメジストの散りばめられた髪留めで髪を纏められる。
リビングに付く頃には、アディラリアはいつも通りの美貌の女魔法使いになっていた。
「相変わらず完璧な男……腹が立つ」
吐き捨てるアディラリアのためにリビングの戸を開けて、エルグヴィドーは僅かに微笑む。彼の緑の目を睨みつけてから、アディラリアはリビングに入った。そこには、リィザに通された母子がいる。
「どうしたのかな?」
見るだけで人を安心させる笑顔を浮かべ、小さな我が子を抱き締めた母親の前に膝を付くアディラリアに、母親はうろたえた様子で口早に言った。
「す、少し前に、この子が畑で鍬を踏んでしまって……。足を切ったんだけど、昨日から熱が出て……」
真っ青な顔の母親の腕の中の子どもを覗き込むアディラリア。五~六歳の痩せた男の子は、がたがたと震えていた。
「傷口から菌が入ったかもしれないね。ソファに寝かせてくれる?」
促されて母親は男の子をソファに寝かせる。シャツの首筋に手を入れて体温を測り、アディラリアは眉根を寄せた。続いて靴を脱がせて足を見ると、小さな傷が膿んでいるのが分かる。
「リィザ、お湯を持ってきて」
振り向かずに指示するアディラリアの声に、リィザが動くよりも先に、廊下から洗面器を持ってエルグヴィドーが現れた。アディラリアはエルグヴィドーにちらりと視線を向けてから、洗面器を受け取り、床に置く。
「破傷風じゃないといいけど。とにかく、薬を出そうね」
傷口を見てから立ち上がったアディラリアと入れ替わりに、エルグヴィドーがソファの傍に膝を付いて男の子の傷口を洗面器の湯で洗った。
「私の兄なんだ。似てないけどね」
アディラリアは母親を安心させるように微笑んで、エルグヴィドーを片手で示す。
「エルグヴィドーだ」
僅かに頭を下げるエルグヴィドーに傷の処置は任せ、アディラリアは大股で廊下を歩き、地下倉庫に向かった。ただおろおろと見ていることしかできないリィザも、冷静なエルグヴィドーとアディラリアの様子を見ていると、少し落ち着いて、キッチンに行って薬缶に湯を沸かし始める。
戻ってきたアディラリアが男の子に注射をしたり、消毒液とガーゼと包帯を受け取ったエルグヴィドーが傷の処置をしたりしている間に、リィザはお茶を煎れて母親に出した。母親はリィザを見て涙目で礼を言う。
「熱さましと、菌を殺す薬を渡しておくよ。また心配なことがあれば、いつでも連れておいで」
処置を終えた後に薬袋を手渡すアディラリアに、母親は何度も何度も礼を言い、男の子を抱えて帰って行った。母子が帰った後に玄関の鍵を閉め、リィザはアディラリアを振り返る。アディラリアは小首を傾げて微笑んだ。
焦げ茶色の目に見る見るうちに涙の粒が膨れ上がる。
涙を零しながら無言で飛びついてきたリィザを、アディラリアは顔を歪めながら受け止めた。アディラリアが胸の傷の痛みに呻いていることにも気付かず、泣き続けるリィザを、エルグヴィドーは容赦なく引き剥がす。
「エルグ……!」
眉を顰めたアディラリアをエルグヴィドーは担ぎ上げた。
「放せ……こら、歩けるから!」
「アディ」
静かに名前を呼ばれて、アディラリアは息を吐く。そして、ぎゅっとエルグヴィドーの首にしがみ付いた。
アディラリアとアート。
二つに分けられた一人の魔法使いを、同じ名前で呼び、同じように扱うのは、エルグヴィドーただ一人。
――エルグヴィドーを愛してはいけないよ。
――レイサラス家の人間は、同じレイサラス家の人間とは婚姻を結べない。
――それを破れば、バッセル帝国中の魔法使いが、その命を奪うまでお前たちを追い回すだろう。
――お前は、エルグヴィドーを殺す。そんな不吉な存在でしかないんだ。
幼いアディラリアの心を砕いた、レイサラス家の年老いた女魔法使いの言葉。
あれこそが、呪いだったのかもしれない。
あの日の悲しみと怒りに、アートという名前を付けて、アディラリアはもう一人の自分を作った。
緩やかに波打つ紅い髪の女魔法使いが微笑む。
――私は、王様ユナ・レンセと行きます。
彼女が最初から自分を見ていないことなど、知っていた。
けれど、その潔さと真っ直ぐな気持ちに、惹かれた。
――彼が私を愛していないことなど、知っています。でも、私の命は、彼のために使いたい……。
ゼルランディアと、彼女の名前を呼ぶと、彼女はゆっくりと微笑む。
――あなたには、消えない傷をあげるわ。こんなことしかできない師匠で、ごめんなさい。
『星の舟』を降りる彼女を、追いかけることもできなかった。
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