幕間
第49話 恋歌
夜闇に浩々と輝く月を見上げてサウスは目を閉じる。
ギド・セゼン・サウス・レフィグル・ダイス・レンセ。
キエラザイト帝国正妃である、六つ名の魔法使い。
彼が例外中の例外……唯一の『月の谷』の魔法使いだった。
「皇帝陛下がお渡りになられます」
侍女の声にサウス・レンセはサーコートを肩に羽織ったままで凍りつく。
本来は鎧の上に纏い鎧を直射日光から守るためのものだった袖なしのサーコートは、重い鎧が時代錯誤となった昨今のキエラザイト帝国の魔法騎士団では、袖がつき、襟がつき、両脇に深いスリットが入ったロングコートと成り果てていた。しかし、名前だけはそのままで、魔法騎士団の纏う胸に空色の三つのひし形の紋章が刺繍された漆黒のコートを、誰もがサーコートと呼び習わす。
サウス・レンセのそれには、花のように組み合わされたひし形の横に、白い月と雫の紋章が刺繍されていた。それは、サウス・レンセの……キエラザイト帝国皇帝正妃の紋章だった。
「俺、散歩。じゃ、またね」
この上なく軽く言い放ってサーコートに腕を通し、皮の手袋をつけた手を窓枠にかけ、皮のブーツを履いた足を窓枠に乗せたところで、走りこんできた侍女がそのサーコートの裾を掴む。
「お待ち下さい、サウス・レンセ正妃!」
「やだーその呼び方。サウスって楽に呼ぼうよ~?」
無駄に整った顔が、くしゃりと歪むのを侍女は沈痛な面持ちで眺めた。
彫刻を思わせるほど整った顔立ちの彼は、喋りだすや否や、その落ち着いた静かな印象を粉々に打ち砕く人物だった。彼が正妃になってから、その端正な横顔に惚れた侍女が、どれだけ夢を打ち砕かれたか分からない。
「皇帝陛下が渡ってこられた時に、あなたがおられなかったら、どのようなことになるか、お分かりですか?」
年の頃は四十代くらいの神経質そうな痩せた侍女に詰め寄られ、サウス・レンセは両手を掲げた。
「あまりお分かりになりたくないよ。正妃とか崇め奉られて、籠の鳥の可愛そうなアタシの一日一度の楽しみを奪わないでヨ~」
わざとらしく女言葉など使うサウス・レンセに、侍女は半眼になる。
「皇帝陛下はサウス・レンセ正妃を愛しておいでです。愛する正妃がこの時刻にお部屋におられないとなれば、何人の警備兵と侍女が職を失うことか……」
異様な光景にも揺らがない侍女の力強い物言いに、サウス・レンセはため息を付き長い黒髪を片手でかき上げた。昼間ならば侍女たちに好き勝手に飾られる髪も、湯浴みして乾かしたままなので、それは緩やかに波打ちながら背中まで流れている。
どれくらい前からか分からないが、とにかく三十二歳と言い張る彼は、その年齢よりも若く見え、髪も非常に潤沢にあった。豊か過ぎて伸ばすと首が痛くなるのだが、何故か誰も髪を切ってはくれないどころか、髪を切ろうとすると誰もが真っ青になって止めるので、ここ四年ほど手を加えていないサウス・レンセの黒髪は、最早漆黒の川となっていた。
「あのなぁ……情に訴えかけるなよぉ。俺、お人好しなんだから」
ため息を付き、仕方なくサーコートを脱ぎ捨てると、侍女はそれを受け取りクローゼットに戻す。開いたクローゼットの扉の中には、大量の服が詰まっていた。正妃のために用意されたそのどれもが男物であったことに、正妃になってすぐの頃、サウス・レンセは心底安堵したものだ。
腰の太いベルトから長剣を外すと、侍女はそれも受け取って片付けてくれる。皮の手袋の指先を噛んで外して侍女に渡し、続いてブーツを脱いだところで、扉が叩かれた。
「どぉぞ」
やる気なく答えると、扉が開かれて細身の青年が入ってくる。侍女はそれと入れ違いに部屋の外へ出た。
濃い蜜を流したような艶やかな褐色の肌のサウス・レンセと対照的に、血管が透けて見えそうなほどの真っ白な肌。白金に近いような金髪の青年は、繊細なガラス細工のような美貌の主だった。
けぶるような睫毛に縁取られた目は、見事なアイスブルー。
年齢からすれば少年と呼んでいいはずなのに、すらりと背の伸びた彼こそが、キエラザイト帝国皇帝、アスティール・マイス・キエラザイトだった。
「ようこそ、マイス坊や。よくも俺の散歩を邪魔してくれたな」
眉間に皺を寄せて、寝台に腰掛けるサウス・レンセに、マイスは非常に不機嫌な表情で詰め寄り、サウス・レンセの分厚い胸を押して問答無用で寝台に倒す。そのまま圧し掛かってこようとする細身のマイスを、サウス・レンセは片手で横に押し退けた。
「抵抗するな」
命令することに慣れきった声は、幼さを残して高い。けれど、その目がこの上なく真剣なことに気付いて、サウス・レンセは顔を歪めた。
「待て。こら。抱きたいなら、女のところに行け」
問答無用でシャツの前を開け、滑らかな褐色の平坦な胸に手を滑らせるマイスに、サウス・レンセは目を剥く。
「嫌だ。あなたが好きだ」
首筋に唇を寄せられて、サウス・レンセは耐えられずマイスを自分の体の上から引き摺り下ろした。そして、細い両手首を片手で捉えて寝台に押さえつける。
「えーっと、色々と言いたいことはあるんだが……俺、男は駄目だから、そういう対象にはするなよ?」
「あなたは私の正妃だ。私が渡ってくれば、あなたは私を受け入れるべきだ」
当然のことのように伸べるマイスは、サウス・レンセよりも頭一つ分は背が低く、質量にすれば三分の二くらいしかない。それでも平然と相手を抱く立場にあると思えるあたり、この皇帝には教育が必要だとサウス・レンセは胸中でため息を付いた。
「近親相姦は嫌だな、流石に」
じっと見つめるマイスの顔立ちに面影はないが、彼が自分の妹の孫であることを思いだし、サウス・レンセは複雑な心境になる。
「あなたは、ユナ・レンセではない。そう言ったではないか」
「まぁ……そりゃそうなんだけど……でも、お前の親父に約束したからなぁ……」
自らの甥に当たる男を思い出して、サウス・レンセは目を細めた。
「あなたは……私に従う義務があるはずだ。父上と、母上を、救えなかったのだから!」
憎むように睨んでくるマイスの手を放し、寝台に腰掛けると、マイスはサウス・レンセの胸倉を掴む。彼がまだ十四歳なのだと思い出し、サウス・レンセはその髪を撫でてやった。するとその大きな目に涙が浮かんでくる。
「泣くなよ……お前、父親になるんだろ?」
ぐしゃぐしゃと頭を撫でると、マイスは涙目で恨みがましくサウス・レンセを見た。
「ゼラは……キエラザイトの病院での老人と子どもの医療費を下げて、キエラザイトの隅々まで上下水道を完備して、疫病の時には医療費の引き下げを行って、魔法使いの医療研究所を民間の患者のためにも開放しろって……」
あまりのことにサウス・レンセは吹き出すが、それに構わずマイスは続ける。
「そうしないと、子どもを産んでくれないって……」
「ははっ……さすが、ルヴィウスの秘蔵っ子。宝石を買ってくれとか言う、他のお嬢さん方とは違うな」
笑ってから沈痛な面持ちで額を押さえらサウス・レンセに、マイスは唇を尖らせた。
「彼女を連れてきたのは、あなただろう?」
「お気に召しただろう?」
にやりと笑って問い返されて、マイスは黙り込む。
ゼルランディアという名前の黒髪の妾妃をサウス・レンセが王宮に連れてきてから、マイスが彼女を寵愛していることは周知の事実だった。けれど、夜はいつも正妃の部屋に眠りに来る。
「彼女は……好きだ。でも、あなたも、好きだ」
サウス・レンセの手を握るマイスの華奢な手が、熱いことに気付いてサウス・レンセはマイスを寝台に横たえてくれた。
「キスをして?」
ねだるマイスの柔らかな前髪を掻き上げ、サウス・レンセは白い額に口付ける。
「父上……」
胸に縋ってくるマイスを、サウス・レンセは我が子のように愛しく思った。
毎晩、父親の面影を求めて、サウス・レンセの元へやってくるマイス。
彼の正妃になって欲しいと懇願されて、仕方なく頷いたのも、マイスが一人で眠れないと知っていたからだった。
気の強いマイスは弱みを妃にも見せない。女に寄りかかることは男として恥だと、幼いながらに彼が信じ込んでいるからだ。
だからこそ、父親の叔父であるサウス・レンセに彼は異常なくらいの執着を見せた。
「月の谷の王ユナ・レンセ……」
小さく名を呼ばれてサウス・レンセは目を細める。マイスの父親はずっとサウス・レンセをそう呼んでいた。
「何か、話して」
長く息をつき、天井を見上げるマイスに羽根布団をかけてやり、寝台の端に腰掛けてサウス・レンセは寝物語を考える。
「何が聞きたい?」
問いかけるとマイスは眠たげに瞬きをした。
「『星の舟』の話を」
「あぁ……そういえば、さっきのは嘘だ」
唐突に切り替わった話題に目を丸くするマイスに、サウス・レンセは唇の片端を持ち上げる。
「男が駄目だっていう、アレ。本当は、一度だけ、男に欲情したことがあるよ、俺」
「本当か?」
がばっと起き上がるマイスに、サウス・レンセは苦笑した。
「こういう話に食いつくなよ」
「大事なことだ。話してくれ」
眠気も吹っ飛ばす真剣な表情のマイスの額を撫で、もう一度横たえてから、サウス・レンセは寝台の端に腰掛けたまま目を閉じる。
「初めて見た時には、息が止まるかと思った」
癖のない長い漆黒の髪を背に流し、紫の目でこちらを睨んだ青年。
背丈はサウス・レンセよりも頭半分低く、体付きは無駄のない痩身ながら鍛え上げられていた。
「やることなすこと、全く予測ができなくて、しかも、神出鬼没だった」
笑っているかと思えば怒り出し、怒っているかと思えば次の瞬間には上機嫌。
それなのに、息を吸うよりも自然に魔法を操って周囲のものを破壊していく様は、正しく悪夢のようだった。
誰もが彼の出現を恐れ……そして、彼の危うい美貌に酔った。
「名前は、アート。血の繋がらない兄と、双子の姉がいた」
エルグヴィドー、アディラリア、アート。
レイサラス家の三兄弟は『星の舟』でも有名だった。
優秀で品行方正なエルグヴィドー、おっとりとして優雅なアディラリア、過激で苛烈なアート。
「アートに興味があって姉の方と付き合ったけど、彼女はすごく掴み所がなくて、結局、俺のことなど見ていなかった」
アディラリアの印象が何故かアートと重なって、サウス・レンセは苦笑する。
双子というのに背丈以外似ているところがない二人。
攻撃魔法を全く使わないアディラリアと、リミッターがないかのように攻撃魔法を連発するアート。
簡単に抱き締められるアディラリアと、自分の体に誰かが触れることを嫌がり近付かせないアート。
「彼を支配できたらどれほどに心地よいだろうと思ったんだ。あの揺るがない鋭い目を、こちらに向けたかった」
「そういう感情は、私にこそ向けるべきだ」
非難がましく睨むマイスに、サウス・レンセは肩を竦める。
あの男にならば、全部暴かれて裁かれてもいいと、思った。
あの男に断罪されたい。
あの男に殺されたいと、思ってしまった。
それと同時に、あの体を押さえつけ、征服したいとも思った。
紫の目から零れる涙を、舌ですくいとりたい。
「まぁ、アートは俺なんか見てなかったんだけどな。アートもアディラリアも、見てたのは兄貴だけだ」
その言葉にようやく安心したのであろうマイスは、ふっと微笑んで目を閉じた。呼吸が深くなる。
「マイス坊や?」
呼びかけると、白い指先がサウス・レンセを求めてさ迷った。
「父上……」
マイスの目尻に浮かぶ涙を、サウス・レンセは指先で拭ってやる。
あれが恋だったのか、それすらももう分からない。
きっと、マイスもまた、いつかこんな風に自分を思いだすのかと思うと、ぞっとしてサウス・レンセは寝台から立ち上がった。
万年不眠症で、眠ることができないアートは、いつも褪めた目で世界を見ていた。笑いすらも空虚で、一歩間違えれば泣いてしまいそうな雰囲気すらあった。
あの男とならば孤独を分け合えるかも知れない。
明けない夜を渡っていけるかもしれない。
三十二歳の夜から、抜け出せるかもしれない。
そう思ったのに、運命はあまりにも残酷で。
――『星の舟』が落ちるその前に。
――あなたしかできない。
――ユナの名を持つあなたしか、できない。
囁きかける声を払うことはできず、サウス・レンセは長椅子に倒れ込んだ。
残された時間は、僅かしかなかった。
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