第16話 六番目の魔獣 4
川辺に無駄に長い足を折り曲げて座り、面倒くさそうに釣竿を握っているルインを、エドリグはちらちらと見ていた。腰周りが妙に余ったズボンを履き、横が余るシャツを纏った彼は、ゼラに被せられた麦藁帽子をつついたり被り直したりしている。
「なぁ、これって、何か意味あるのか?」
やる気なさそうに釣竿を持ち上げ、その針に虫がついていないことを確かめてエドリグに視線で助けを求めた。エドリグは、行きがけに掘った虫をルインの針につけてやる。
「釣れたら、ゼラ先生がフライにしてくれるよ?」
「フライか……なんだっけ?」
「パン粉まぶして、油で揚げてくれるんだよ。美味いよ?」
言いながらエドリグが上げた竿の先には、小さな川魚がぴちぴちと跳ねていた。エドリグは平然とそれを外して、持ってきたバケツに突っ込むが、ルインは目を丸くして素早く魚を持つエドリグから飛び退って逃げる。
「これ、食うのか?」
「食うよ?釣ったこと、ないの?てか、見たことないの?どんな山奥に住んでたんだよ」
呆れるエドリグに、ルインはバケツの中の魚を気味悪そうに覗いた。
「食いたいなら、ここで焼いてもいいけど」
「いや、いい」
即答するルインに、エドリグは吹き出す。
「あんた、面白いなー」
「俺は楽しくもなんともない」
笑われて半眼になったルインに、エドリグは針に再び虫をつけて川面に垂らした。
涼しい風が川面を渡っている。時折頭上を通り過ぎる鳥は、高く鳴いて仲間を呼んでいるようだった。見上げると幾重にも積み重なった白い雲が、青い空にぽっかりと浮かんでいる。
周囲を見ても、川の近くには木々があるが、それ以外は低木が疎らに生える草原がどこまでも続いていた。目を凝らすと草原を抜ける踏み固められた道の先に、幾つか民家が見える。その民家の近くは畑が作られていて、僅かに黒く見えた。
「俺が逃げるとか思わないのかねぇ」
膝に頬杖を付きながら、ルインは呟く。逃げようと思わなくもないのだが、この無駄に拓けた空間が、却ってルインのやる気を削いでいた。
――どこへ逃げたって無駄よ?あなたの体の呪詛を、キエラザイトの魔法騎士団は覚えたわ。どこへ行ったってあなたの気配は追える。
イージャの言葉がルインの耳の中で響く。
――いっそ、死んだ方がマシかもしれないわね。あなたは大陸全土にサウスの目からは逃れられないのよ。
それはいっそ、死刑宣告に聞こえた。重圧に押しつぶされ、身の動きを封じられた状態で、見えたのは床だけなのに、何故かルインはイージャの表情が分かった気がした。
ゼラのように真っ直ぐではなかったが、イージャもまたルインに憐れみを感じていたことは、確かだった。
「引いてる」
声をかけられて、ルインは慌てる。よく見ると、確かに釣竿が引っ張られているような気がした。
細い糸の先にあの生き物がついているのかと思うと薄気味悪くて、釣竿をエドリグに押し付けるルインに、エドリグは慌てて受け取ってそれを持ち上げる。吊り上げた魚は、先程のものより大きく、よく太っていた。
元気よく跳ねるそれを、エドリグは嬉しそうに掴んで針から外し、バケツに滑り込ませる。ルインは灰色の目で信じられないものを見たような表情になった。
「あのさ、えーと、ゼルランディアって、何者だ?魔法使いってあんなもんなのか?」
イージャや八歳の時から六年近く毎日のように会っていた男が、ルインの魔法使いのイメージの基礎になっていて、ゼラは例外なのか、それとも自分の出会った魔法使いが例外なのか、見当もつかない。八歳までの常識しかないルイン……記憶力は悪くないつもりだが、六年以上の空白をほんの数日で埋められるはずもなかった。
「ゼラ先生?どうだろうね。魔法使いって数が少ないからさ、俺もあまり会ったことないんだよ。見たことはあるけど、話をしたことなんて数えるほどしかないよ」
希少種とも言える魔法使いウィザード。それは人間ヒューにとっては、恐怖と羨望の的であった。できれば近寄りたくない存在には違いないのだが。
「魔法使いってのは、慈善事業化ばかりなのか?」
「いや……言われて見れば、ゼラ先生は異色かもね。先生の旦那さんは……まぁ、あの人も気さくだったかな」
仮面をつけていたが、それなりに親しげにしてくれた男の魔法使いを思い出し、エドリグは苦笑する。彼は彼なりに、この地の人々に頼りにされ、慕われていた。格安で薬を分けてくれる魔法使いなど、そうそういるわけがない。
「旦那……!?」
「妙なところに食いつくね」
言われて気味悪げに竿の先を見るルインに、エドリグは一応、突っ込んでおく。
「魚じゃないからね?」
「脅かすな」
二メートル近い長身の男が魚程度に怯えているのが面白くて、エドリグはにやにやするのを止められなかった。
「ゼラ先生、旦那さんがいたんだよ。三年前に死んじゃったけど。でも、ゼラ先生にはすっごい優しかったみたい」
牽制するように告げると、ルインが肩を竦める。
「あの胸のどこに魅力を感じたんだか……」
その言葉に申し訳なく思いつつも、エドリグも同意した。
「そうだよな。あの、紫っぽい銀髪のお姉さんならともかく……」
細い体の割りには大きい形のいい胸を思い出し、エドリグが鼻の下を伸ばすのを、ルインはどこか冷えた目で見る。
誰もが所詮は、薄い皮膚の下に鉄錆び臭い血と温く柔らかな肉を詰めた、皮袋のようなものなのだ。
食い破ればすぐに溢れて零れる。
壊すことなど簡単だ。
――どこへでも逃げればいいわ。あなたは魔法使いにも人間にも受け入れられない。魔獣になったあなたの姿を見れば、誰もが悲鳴を上げて逃げ出すわ。
呪いのようなイージャの一言。
ルインはそれを噛み締める。
この人懐っこい少年もまた、ルインの本性を垣間見れば、恐怖に顔を歪ませて逃げていくのだろうか。
ふと腕を掴むと、それは細く、掴まれたエドリグは不思議そうにルインを見上げた。
そのはしばみ色の目に、警戒の色はない。
このまま掴み上げて細い首を折り、喉笛を噛み砕き、血を啜ろうか。腹部に爪を立てて開き、汚らしい内臓を引きずり出してみようか。
ぞくぞくする程の期待感に満ちた表情で、少年の喉下に手をかけようとした瞬間、ルインの鼻を甘い香りが掠めた。
それは抗いがたい、誘惑の香。
気付いた時には、ルインはすでにすっかりエドリグを殺す気をなくしていた。それよりも、一刻も早く、ゼラの元へ戻りたい。
――あなたは、きっと、薬で感覚がおかしくなってるんだと思います。
ゼラの声を思い出したが、ルインはすぐにそれを頭の中から蹴り出した。
「戻ろう。ゼルランディアに、会いたい」
エドリグから手を離し、ふらりと歩き始めたルインに、エドリグは慌ててバケツと竿を持ちあげる。
「あんた、ゼラ先生が好きなの?」
揶揄すら含んだ安直で単純な問いかけに、ルインは面倒くさそうに答えた。
「好きだよ。今すぐにでも、抱きたい」
「だきっ……」
たくさん太陽を浴びて育ったトマトのように真っ赤になるエドリグの顔を、ルインは興味なさげに一瞥して歩き出す。
「待てよ。道、逆だよ」
しばらく行ったところで声をかけられて、ルインは素直に踵を返した。
釣って来た魚を捌いてフライにするゼラの隣りで、パンを切りながらエドリグは自分とあまり身長の変わらぬゼラをまじまじと見つめた。
短めに切った癖のある黒髪に黒い目、胸がほとんど分からない細い体。色気など全く感じさせない襟高の袖なしのシャツに、裾のほつれたハーフパンツ、出かける時にはサンダルに麦藁帽子という出で立ちは、田舎の少年にしか思えない。
帝都から戻ってから、首輪のようなデザインで青い石のはめられたチョーカーと、涙型のイヤリングを外さないが、非常に格好に似合っていないので、エドリグにはそれらの装飾品は色気よりも違和感を感じさせるものでしかなかった。
ルインはゼラに指示されて、朝に風呂に入れられたのに薬草湯に渋々入っている。
「あの人、病気なの?」
パンを切り終えたエドリグが木の皿にそれを入れるのに、ゼラは各人の枚数を指で示した。
「病気というか……色々とワケアリで」
「ワケアリなんだ」
納得してエドリグはパンの皿を食卓に運ぶ。
「あの人、フライ、食べないかもよ?」
油の入った鍋にパン粉をまぶした魚の切り身を滑り込ませたゼラは、エドリグの言葉に目を丸くした。
「嫌いなの?」
「食べたことないんだって」
「あー。ないんだ」
納得するゼラに、エドリグはルインがどんな生まれかを考えずにいられない。
「分かった、王子様!」
「絶対、違う!」
即座に否定したゼラは、動揺のあまり油を跳ねさせてしまい、驚いて手を引いた。手の甲が赤くなっている。
「そうなの?」
否定されたのでますますその可能性を疑うエドリグに、ゼラはため息を付いた。
「違うからね?」
念を押すとエドリグは納得したのかしていないのか分からない表情で、ただ「ふぅん」とだけ答える。
「魔法使いの被害者だよ」
ゼラの言葉は非常にありふれていて、むなしく響いただけだった。
「エドリグ、仲良くしてくれる?」
「うん、俺、あいつ、嫌いじゃないよ」
エドリグの答えに、ゼラは安堵してほんのり微笑みながら、揚がったフライを皿に盛りつける。トマトを切って、レタスを千切って皿に盛り、ゼラは食卓に運んだ。
ゼラの家での日々は、退屈なまでに平和に過ぎる。
毎日のように薬草湯に入れられて、未知の食べ物を与えられても、ルインは特に抵抗などしなかった。それすらも諦めているようだった。ただ、エドリグと話す時、ルインの表情は無気力ながらも少しだけ明るくなったような気がして、ゼラはルインとエドリグに買い物や庭の手入れをよく頼んだ。
庭の虫に驚いて逃げ出そうとした話とか、買い物の途中に『星の船』の影を見て呆気にとられた話とか、エドリグのルインに関する笑い話は絶えない。過疎が進む片田舎の村の中で、エドリグにとってもルインは数少ない遊び相手になったようだった。
けれど、ルインの根底にある暗い影は晴れることがない。
それが絡みつきルインの身動きを取れなくするのが、ゼラには見えるようだった。
ゼラが夜中に飛び起きたのは、ルインがゼラの家に来てから二週間が経とうとする頃だった。
奇妙な声が聞こえた気がして、寝台から滑り降り、ゼラは裸足のまま廊下を走る。廊下の先の階段の脇には、ルインが使っている部屋があった。
「ルイン、どうしました?」
ノックをしても返事はなく、ゼラは思い切ってその部屋の扉を開ける。部屋の中は真っ暗で、銀色に光る一対の目だけが見えた。
「ルイン!?」
思わず駆け寄ったゼラの体を、ルインは跳ね除ける。吹っ飛ばされてゼラは廊下にしりもちをついた。
「嫌な夢でも、見ましたか?」
夜風にカーテンが翻る。開け放された窓から、浩々と光る満月が見えた。
「来るな……」
喉から搾り出すようなルインの声は、しわがれてひび割れている。べきべきとルインの頭蓋骨が変貌を遂げているのを、月の光に照らされて落ちた影だけでゼラは確認する。
「苦しいんですか?薬を……」
階段を降りて薬部屋に行こうとするゼラの背を、ルインの声が追いかけた。
「なんで、そこまでしてくれるんだ?」
意外に明瞭なその問いかけに、ゼラは階段を降り掛けた体制のまま立ち止まる。
「それは……困ってる人がいたら、助ける。それは、普通のことでしょう?」
「亡くした夫の代わりか?」
ぞくりとするほどに冷たいルインの声は、ゼラの胸に突き刺さった。
「あなたを、誰かの代わりとは思いません」
睨み付けた先で、ひょろ長い手足を蜘蛛のように地面につけて、こちらを狙う銀の目に、ゼラは震えが止まらない。不用意に手を出せば命がないだろう。
「ならば、何故?」
誤魔化すことを許さない口調に、ゼラは長く息を吐いた。
「私は……小さい時に自分を売ろうとしたことがあります。人買いを待って村外れの石段に座っていたあの時の、泣き出したいような、泣いてはいけないような気持ちを、あなたも味わったのならば……二度とそんなことがないように、守りたいと、思っただけです」
正直に告げた瞬間、ルインが弾かれたように上半身を起こし、踏み込みながら長い腕でゼラの手を引く。
叫ぶことすら許さないと、ゼラの唇がルインの唇によって塞がれた。尖った爪がゼラの寝巻きの襟にかかり、一気に腹まで布地を裂く。後ろ頭に手を添えて、床の上に意外に丁寧に倒されたゼラは、月の光のせいで完全に影しか見えないルインのあまりの大きさに、混乱した。
「アディの薬は、中和しました!正気に返って下さい!」
ゼラの叫びも無視して、無理やりに寝巻きのズボンを脱がされ、足の間にルインの体が入ってこようとする。ゼラはめちゃくちゃに暴れて拒否するが、腕も足も簡単に捕らわれてしまった。
「あんたは、甘いんだよ!薬なんてなくてもな、命を助けてくれて親切にしてくれた相手に、惚れないわけがないだろう!」
罵倒するようなルインの声に、ゼラは悲鳴を上げる。
「嫌です!放して!惚れたなら惚れたで、他の方法があるでしょう!」
「ないよ!」
きっぱりつ告げたルインに、ゼラは絶句した。
「俺は、そんなもの、知らない!それに、俺には時間がないんだ!」
どこにも逃げられない魔獣。
迷い込む出口のない迷路。
肌の上を這い回るルインの手は、そこにゼラを引きずり込むためのものでしかないのかもしれないと、悟った瞬間に、ゼラは絶叫していた。
「嫌だ!いや!ルヴィウス!助けて!ルヴィウス!」
堪えていたゼラの目から涙が零れ落ちるのを、ルインは冷淡に見下ろす。
「魔獣など、誰も愛さない……あんたも、そうなんだろう?裏切るのなら、最初から情けなどかけるな!」
ふっとゼラの体の上から重みが消えた。
しゃくり上げながら身を起こしたゼラの目の前で、ルインは窓から身を乗り出して飛び降りる。
「どこに……?」
ゼラの問いかけに答えることなく、ルインは姿を消した。
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