第44話 アディラリアとその兄  4

 アートなのかアディラリアなのか分からないが、どちらかが傷を受けて動けなくなってから三日間、リィザは生きた心地がしなかった。もしも、アディラリアが死んでしまったらと思うと、庭の手入れをしながら、また、部屋の掃除をしながら、リィザは滲んでくる涙を止められなくなる。

 あんなに大量の血を見たのは、初めてだった。弟のリィオが転んで膝をすりむいた時ですら、直視できなかったリィザにしてみれば、血塗れのアートの姿は網膜に焼きつくほど衝撃的である。

 エルグヴィドーは食事の用意はしてくれるが、地下倉庫とアディラリアの寝室を行ったり来たりして忙しく、ほとんど話もしていない。


――驚かせてすまなかった、リィザ。アディの命に別状はないから、安心してくれ。


 その一言だけを支えに、リィザは三日間、アディラリアが元気になった時のために、こまねずみのように家の中を駆け回って働いていた。

 三日目の昼前には、魔法使いがもう一人アディラリアを訪ねてきたようだったが、魔法使いは玄関を通って入ってこないので、リィザには誰がいるのかよく分からない。エルグヴィドーが淡々と昼食を作ってアディラリアの寝室に戻るのに、リィザは怖くて声もかけられなかった。

 もしも、問いかけて明るい答えが返って来なかったらどうすればいいのだろう。

 もうリィザは家に戻ることもできない。戻るところもない。それに、リィザにとってアディラリアは母親以上の存在になっていた。

「大丈夫か?」

 注文していた苗を受け取りに行ってくれていたルインが、庭から声をかけてくれて、リィザは慌てて立ち上がる。袖で涙を拭うも、すぐにまた涙が滲んできてしまった。

「だ、大丈夫!アディ、大丈夫だって、エルグさんが言ってたよ」

 健気に言って、部屋の花瓶の水を変えるリィザに、庭に面した窓から覗き込んだルインが、肩を竦める。

「アディのことじゃない、あんたのことだよ」

「あたし?」

 言われてリィザは顔を上げてしまい、慌てて俯いた。泣いたせいで真っ赤になった目に、ルインは気付いただろうか。

「あっちは魔法使いなんだから、大丈夫だろう。それよりも、あんたが無理してるんじゃないかと思って……」

 無愛想なルインに優しい言葉をかけられると、リィザは涙を堪えられなくなる。しゃくり上げ始めたリィザに、ルインはため息を付き、庭から部屋に上がってきてくれた。

 七十センチ以上長身のルインは、おざなりにリィザの頭を撫でる。リィザは花瓶を抱いて俯いたまま、ぼろぼろと涙を零した。

「すごい血が出て、アディ、苦しそうで……」

 口に出すとなおさら鮮明に三日前の映像が浮かんできて、リィザは顔面蒼白になる。倒れそうな小さな体を、ルインは片に手を添えて支えてやった。


 小さな痩せた体。


 ふと、既視感が湧いてくる。

 泣いている幼い子どもを、こんな風に支えてやったことがあるような……。


「どうしよう……アディ、死んじゃうかもしれない」

 焦げ茶色の目が虚ろな色になってくるのに気付いた瞬間、ルインは思わずリィザを肩に担ぎ上げていた。リィザの手から花瓶が落ちて水を撒き散らしながら床の上を転がっていく。それにも構わず、ルインは大股で階段を駆け上がった。

 アディラリアの寝室から、何か言い争う声が聞こえてくる。ルインは躊躇いなくその扉を開いた。


 寝台の傍に立っている黄緑にも見える不思議な金髪の男、エルグヴィドーと、エルグヴィドーを部屋から出さないように立ち塞がるアートの背中、そして、壁際には紅い髪の少年。

 部屋に入った瞬間にぴりぴりと皮膚の表面が痛むような感覚で、彼らが皆魔法使いだとルインには分かった。

 緩慢な動作で振り返ったアートのバスローブの胸が赤く染まっていることに気付いて、リィザがルインの肩の上で息を飲む。ルインが降ろしてやると、リィザは真っ直ぐにアートの元へ駆け寄った。

「い、痛いの?大丈夫?」

 涙ながらに問いかけてくるリィザを抱き寄せ、アートはエルグヴィドーを睨んだまま、ルインの前まで下がってくる。片手を伸ばし、ルインを庇うような仕草を見せるアートを、ルインは不審に思った。

「俺の弟子に手出しはさせない!」

 強い口調で言うアートのローブの紅い染みがじわじわと大きくなっていくのを間近で見て、リィザは震えながらエルグヴィドーに首を振ってみせる。懇願するようなリィザの目に、エルグヴィドーは口調を和らげた。

「アディ、君は私の大事な妹だ。家族を守りたいと思っては、いけないか?」

 優しく伸べる手を、アートは乱暴に払う。

「家族だなんて、思ったことはない!」

 苦しそうに肩で息をするアート。その顔色は髪のように白かった。


「怪我人を、そんなに興奮させるものじゃないよ?」


 見かねたのか、赤い髪の少年が、アートとエルグヴィドーの仲裁に入ってくれる。胸を真っ赤に染めたアートがふらつくのを支えて、ルインはゆっくりとそちらを見た。


 赤い髪。

 魔法使い。

 華奢な少年のような体形。


「ゼルランディア……」


 息を飲み、思わず口を付いてでた名前に、ルイン自身が驚愕する。

 黒髪の魔法医、ゼルランディア。

 けれど、ルインが呼んだのは、彼女の名前ではなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る