第43話 アディラリアとその兄 3
――それは、大陸と……キエラザイト帝国と『星の舟』と引き換えにしてもいいような、ものなのか?
違うと、首を振ったのが誰か、アディラリアにはもう思い出せない。
――必要なものは、赤剣、予知者、封印を解くキエラザイトの王族、そして、狂戦士。
もう一つの声は、ユナ・レンセのものに違いないと、アディラリアは思う。いや、彼はサウス?それとも……。
――奴が立ち上がれば、シャーザーンはその上に落ちる。
この声にも確かに聞き覚えがあるはずなのに、アディラリアはどうしてもその声の主を思い出せない。
――ゼルランディアが必要なんだ。
ユナ・レンセが呼ぶその名前の主も、アディラリアにはもう誰なのか分からない。
――レイサラス家が彼女を手放すはずはない。
もう一つの声が静かに告げる。
その声の主が、誰なのか掴めそうなのに、思考がすぐに霧散してしまう。
――では、俺は殺すしかないのか、ルヴィウス、お前を。
鞘ばしる音。そして、反響する魔法の詠唱。
ルヴィウス……。
正式には、ニレ・ルヴィウス・アッセンド・リシク・イリウ。
そして、ルイン。
目を開けた瞬間に、アディラリアは彫刻のように美しい青年の顔の左半分が崩れ落ちるのを見た気がした。
「大丈夫なのか、アディ?ものすごい顔をしてるけど」
不機嫌面で覗き込む赤毛の少年に、アディラリアは数回瞬きをする。全てが夢だったのだろうか、気が付けばアディラリアは自分の部屋のベッドの上にいた。
赤毛の少年はベッドに片膝を乗り上げて、アディラリアの体に巻きつく蔓草を引き抜いている。
「ウェディー、なんで、君が?」
声を出すと喉が痛んで、アディラリアは空咳をした。本当に咳き込むと胸が痛んで動けなくなる。
「イージャとか言う嫌な女魔法使いから連絡があって、アディが死に掛けてるはずだからって聞いて、駆けつけたら、仲良く兄妹で寝てるし……」
じろりと睨まれて、アディラリアは周囲を見回した。その様子にウェディーがにやりとする。
「エルグヴィドーには席を外してもらってるよ。彼がいると、魔法が使いにくいから」
言いながら、ご自慢の炎の魔法を使って、蔓草を焼きながら剥がすウェディーに、アディラリアは髪を掻き揚げて問いかけた。
「今日は、何日?」
「ん?エルグヴィドー曰く、三日目」
「三日!?」
熱のためか起きている時間と眠っている時間の境がないような生活をしていたアディラリアは、正確な日にちを教えられて唖然とする。エルグヴィドーの性格からして、アディラリアの眠っている間にバッセル帝国に戻ったということはないだろうから、三日も彼は仕事を空けていたことになる。
レイサラス家の魔法使いとはいえ、彼は四つ名であって、決して魔法使いとして高位ではなかった。魔法騎士団の中では真ん中よりも下に位置するだろう。それなのに、気軽に何日も休みが取れるわけがなかった。
「リオ婆さんに連絡を!エルグは?エルグは何をしてるんだよ!」
舌打ちして立ち上がろうとするアディラリアの胸元を、ウェディーは半眼で指差す。豊かな真っ白な乳房が、はだけたローブの中から完全に見えていた。
その目も眩むような白を斜めに切り裂く紅い傷跡。
獣の爪痕のように深々と刻まれたそれは、ようやくふさがりかけていた。
「それに、今、連絡しても、あっちはそれどころじゃないよ」
長く息をつくウェディーの表情が明るくないことに気付いて、アディラリアは眉を顰める。嫌な予感がして、背中に傷と熱だけではない汗が滲んできた。
「ここ数日で、先見の力を持つ魔法使いが、立て続けに死んでるんだ。多分、高位の先見の魔法使いはほとんどやられたね。ティーは無事だけど、それもリンフィスとラージェあってのことだ」
「殺されたの?」
即座に問い返したアディラリアに、ウェディーはきっぱりと首を振る。
「多分、先見に同調しすぎたんだ。大陸の崩壊を見て、精神が死んでしまったんだよ」
自分が見た未来に精神が引き摺られることは、先見の魔法使いには逃れられないことだった。けれど、これだけ相次いで魔法使いが死ぬというのは、尋常のことではない。
「レイサラス家のパーシーも死んだって噂だよ。残りは、ケイラ、イオティン、レリキシー、ガイス、クァンシス……そして、エルグヴィドー、アディラリア、アートの八人になったってことだ」
あの皺くちゃな猿の干物のような魔法使いたちにそれぞれ固有名詞があったのかとアディラリアは驚く。
それから、ゆっくりとアディラリアはウェディーを指差した。
「君は、戻らなくていいの?」
「リトラ共和国に?」
問い返すウェディーに、アディラリアは半眼になる。
「バッセル帝国に。リオ婆さんが再三、戻って来いと行ってるじゃないか」
言われてウェディーは気まずそうな表情になった。
ウェディー……テュール・ティエット・ヴァーソロミュー・ウェディーは、バッセル帝国のバッセル・ドゥーラ・リオセリス女皇帝の遠縁にあたる。けれど、『星の舟』から戻ることなく、ウェディーはリトラ共和国に行ってしまった。
その理由を知っているアディラリアとしては、戻りたくないのも当然と思えるのだが。
「今更、ドレスなど着てどこかの貴族の息子と結婚しろなんて、冗談じゃない」
舌打ちをしかねないウェディーに、アディラリアは苦笑する。
「ドレスも悪くないよ?」
「サウスとの婚姻を拒んで自由都市に逃げた君が、よく言うね」
憮然としたウェディーに、アディラリアは肩を竦めた。
ウェディーは、れっきとした女性である。しかし、『星の舟』に来た頃から、彼女はずっと少年の姿をしていた。
「あの黒男の名前を言わないで欲しい。嫌いなんだってば、あの馬鹿。あーほら、鳥肌立っちゃった」
眠たげな目でローブの袖をまくってみせるアディラリアに、ウェディーは顔を顰めて寝台から飛び降りる。そして、部屋の戸に向かっていくが、それは外から開かれた。
「アディ、傷の具合はどうだ?」
ノックもせずに平然と入ってきたエルグヴィドーの姿に、ウェディーは一瞬固まる。身構えるウェディーを完全に無視して、エルグヴィドーはアディラリアの寝台に駆け寄った。
「大したことないから、レイサラス家に戻って」
素っ気無く告げるアディラリアに、エルグヴィドーは小さくため息を付く。
「ヴィルセリスの作った魔獣のことなんだが、彼の証言を元に彼の生まれた村を探したが、該当する村は五十年近く前に土砂崩れでなくなっていた。キエラザイトの魔法研究所が彼の生体組織を検査にかけたら、それが人工のものだと分かったらしい」
唐突なエルグヴィドーの物言いに、アディラリアは目を丸くした。
「どういうことだ?」
「どういうことにせよ、正体の知れない彼を、ここに置いておくことはできない」
硬い声でエルグヴィドーが告げた瞬間、アディラリアは寝台から滑り降り、エルグヴィドーの前に立ち塞がっていた。
エルグヴィドーとアディラリアの身長に差はほとんどない。豊かな胸の分だけ、アディラリアの方が迫力があるくらいであった。
「でも、彼は人間だ!ゼルランディアがそう信じていたなら、私だって、そう信じてやる。あれは、私の弟子だ!手を出すな!」
ぱしぱしとアディラリアの体を包む空気が、電気でも帯びたかのように放電しだす。それに応じて、アディラリアの髪が黒色に色を変えていった。
「アート!?」
カードを裏返すように現れたアートの姿に、ウェディーは壁際まで逃げる。小柄な少年を紫の目で一瞥してから、アートはエルグヴィドーに視線を戻した。
「傷を負ったアディと得体の知れないものを一緒にしておくわけにはいかない。私がバッセルに戻るのならば、彼も連れて行く」
「卑怯者め!俺からこれ以上、何を奪えば満足するんだよ!」
振り上げた片手を下ろすことはできず、アートは憎々しげにエルグヴィドーを睨み付ける。
「何も奪ったつもりはない」
平坦な声で答えたエルグヴィドーに、アートは歯を剥いた。
「本当の化け物は、俺だろう?親殺しの罪人だ。殺した魔法使いの数も、片手じゃ足りないぜ?捕らえるなら、俺にすべきだ。裸にして、鎖で繋いで、檻の中にでも放り込めばいいじゃないか!」
怒鳴り声とともに、ぷつりと皮膚の裂ける音が聞こえ、エルグヴィドーは顔色を変える。アディラリアのローブの胸が赤く染まっていた。
「アディ、傷が開く。ベッドに戻れ」
「俺に命令をするな!」
苛々と頭をかき乱し、アートは怒鳴る。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます