第42話 アディラリアとその兄  2

 傍に誰かがいる気配に、アディラリアは薄く目を開けた。元々、アディラリアは長く眠れない体質であるし、非常に神経質なので少しの物音でも意識が覚醒してしまう。

 眩しさに目が慣れると、寝台の端に黄緑にも見える奇妙な金髪の男が腰掛けているのに気付いて、アディラリアはこれが夢だと断定した。どうせ夢なのでいいかと思い、手を伸ばしてシャツの裾を引っ張ると、男が振り返る。

「起きたのか……気分はどうだ?何か食べられそうかな?」

 優しい声音でその男が話しかけるので、アディラリアは夢とはこれほど都合のいいものだったかと、嬉しくなった。アディラリアが笑うと、相手……兄のエルグヴィドーも不思議そうに首を傾げながら微笑んでくれる。銀色の縁のメガネの奥の目は、深い森を思わせる緑色。

「仕事……は?戻らなくて……いいの?」

 口を開くと、唇が乾いてひび割れていて、声が出しにくいことに気付いて、アディラリアは夢ならば万全な状態であってもいいはずなのにと、胸中で舌打ちをした。体もすごく熱い気がする。

「休みを貰った」

 素っ気無い物言いながら、その内容にアディラリアは歓喜した。

「リンフィスは?」

 意地悪くエルグヴィドーの婚約者の名前を持ち出すと、彼は片眉を持ち上げる。

「『星の舟』にいるだろう?」

「婚約者のところに……行かなくちゃいけないんじゃないか?」

 くすくすと笑うと胸が痛んで、それが精神的なものからくるのか、傷から来るのか、アディラリアは分からなくなった。淡い紫に光る銀色の髪をそっと払い、額を露わにして、冷水で絞ったタオルで、エルグヴィドーがアディラリアの汗を拭ってくれる。その手が優しくて、アディラリアは泣きたい気分になった。

「どこにも行かないよ」

 ふわりと近くから漂う強い花の香りに、気が遠くなる。エルグヴィドーの声が遠くなった気がして、アディラリアは手を伸ばした。


「リンフィスと、別れて」


 絞り出した声が酷くかすれていて、アディラリアは瞼が熱くなる。エルグヴィドーの手が近付いて来て、頬を撫でる感触で、アディラリアは自分が泣いていることに気付いた。

 どうせ夢なのだからと、続けて全て吐き出してしまう。


「レイサラス家なんて、捨てて。バッセルの魔法騎士団なんてやめて。俺と暮らそうよ。俺と一緒にいてくれよ……」


 もう自分がアディラリアなのかアートなのかも分からない混乱状態で、アディラリアはひたすらに請い願った。

 エルグヴィドーはしばらく黙して何か考え込んでいるようだったが、ややあって「分かった」と小さく呟き、シャツの襟元に手を突っ込み、細い銀の鎖を引き出す。その先には、銀色のシャチの形のペンダントトップがついていた。

 人差し指と中指の上にそれを置き、背びれを親指で撫でながら、エルグヴィドーは唱える。

「『星の舟』のリンフィスに繋いでくれ」

 シャチは丸い目を緑色に輝かせて、小さな口を顎が外れそうなほど開いた。

 すぐに褐色の髪をツインテールにした小柄な美少女が映し出される。彼女はエルグヴィドーとその後ろに広がる光景を見て、「あー!」と指を差し大声を上げた。


『アートのところにいるのね!アートと話させて!もう、通信にも出ないんだから!』


 怒った素振りの少女、リンフィスにエルグヴィドーは緩々と首を振る。

「アディは今、出られる状態じゃない。それよりも、相談がある」

 いつになく積極的に話しかけられて、リンフィスは目を丸くした。エルグヴィドーは感情の起伏がなく、物に執着しない、非常に淡々とした人格で、嘘を付かない代わりにお世辞も社交辞令も言えないような、面白みのない男だとリンフィスは理解していた。一応、笑ったり怒ったりもするようだが、その印象は余りにも薄い。

『何かしら?婚約者に改まっての相談なんて。式の日取り?』

 そんなことを言いながらも、リンフィスは胸中で冗談じゃないとも思っていた。エルグヴィドーはレイサラス家の老獪な魔法使いたちが婚約を決めた日から、一度たりとも色気のあることをリンフィスに言ったことはない。それどころか、仕事以外のことで話をしたこともないのだ。

「婚約を解消して欲しい」

『分かったわ』

 渡りに舟と即答してから、リンフィスは目を丸くする。

『レイサラス家の妖怪どもはそれでいいって?』

「いや……独断だ」

『そう』

 あっさりと納得して、リンフィスは上機嫌で通信を打ち切った。

 続いてエルグヴィドーは、もう一度シャチの背びれを撫でる。

「レイサラス・エルグヴィドー・ザルツ・ルヴィンより、バッセル・ドゥーラ・リオセリス女皇帝陛下に申し上げたい」

 言い終わるや否や、シャチの口が開き、半分近く白髪の樽の様な体形の女性が映し出された。着ているものは豪奢だが、纏う雰囲気は酒場の女将といった風情の彼女は、皺と肉に埋もれた目を細める。

『個人的な通信とは珍しいね、エルグ坊や。どうしたんだい?』

 気の良さそうな声で言うのは、確かにバッセル帝国の女皇帝、バッセル・ドゥーラ・リオセリスに違いない。

「急なことで申し訳ないのですが、魔法騎士団を辞めさせていただきたく思っております」

 真剣な表情で告げるエルグヴィドーに、リオセリスは目を丸くした。

『おやおや……仕事人間がどうしたのかねぇ。惚れた女でもできたかい?』

「惚れた相手は昔からいます」

 きっぱりと言い切るエルグヴィドーに、リオセリスは愉快そうに腹を揺すって笑う。

『あんたのそんな表情は始めて見たね。いいものを見せてもらったよ。……その相手ともう一度話し合ってみな。今頃、冷静になって、青くなってるはずだから』

 全てを見透かした様子で囁くリオセリスに、エルグヴィドーは眉を顰めた。

『それから、キエラザイトの正妃が、あんたと通信がとれないって、青ざめてたよ?元々、真っ黒だから分かりにくかったけど』

「……あの馬鹿。分かりました、後ほど、連絡を取ってみます」

 深く頭を下げると満足したようにリオセリスは通信を打ち切る。彼女の言葉を頭の中で反芻しつつ、ゆっくりと振り向くと、アディラリアが目を見開いていた。


「ゆ、夢……じゃないのかな……。現実?え……え?エルグ!?」


 叫んでから傷が痛んだのか胸を押さえて俯くアディラリアに、エルグヴィドーは慌てて駆け寄る。アディラリアはベッドから転げ落ちながら、エルグヴィドーの手から乱暴にシャチのペンダントトップをもぎ取った。

「レイサラス・アディラリア・アージェンディー・アディウルより、リオ婆さんへ!」

 告げるや否や、もう一度リオセリスが映し出される。リオセリスは青ざめているアディラリアの顔に、にやりと笑いかけた。

『おや、アディじゃないか。久方ぶりだね。あたしを婆さん呼ばわりするなんて、いい度胸だ』

「婆さんは婆さんだろうがっ!い、今さっきのは全部嘘だから!エルグは魔法騎士団を辞めたりしない!」

 一方的に告げるアディラリアに、エルグヴィドーが横からシャチのペンダントトップを奪う。

「アディの言っていることは聞かなくていい」

「エルグ!ちょっと黙ってろ!……リオ婆さん、私がエルグは説得するから……ちゃんと、バッセルの魔法騎士団に戻すから、絶対にやめさせたりしないで!」

 アディラリアが言い終えるよりも先に、エルグヴィドーは通信を打ち切っていた。銀色の華奢なメガネの向こうから、エルグヴィドーが責めるようにアディラリアを見つめる。

「リンフィスにも、連絡しろ。さっきのは、冗談だったって。式は明日にでも、挙げようって」

 エルグヴィドーに負けないように、強く睨み付けるアディラリアに、エルグヴィドーはため息を付いた。

「アディが言ったのに?」

「寝ぼけてたんだよ」

 子どものように揚げ足を取ろうとするエルグヴィドーに、アディラリアはきっぱりと言う。けれど、納得していない風情でエルグヴィドーは眉を顰めた。

「一緒に暮らそうって言ったのは、アディだ」

「寝ぼけてたって言ってるだろう!」

 怒り狂って立ち上がろうとして、アディラリアは胸を押さえてよろめく。よく見るとアディラリアの全身を褪せた白の蔓草が這って、挙句に白い花まで咲かせていた。それが傷口を塞ぐことは知っていたが、まさかこんなものを使うなどと、アディラリアは舌打ちする。

「これ、引き剥がすの、すごく大変なんだからな!」

 宿主の魔力を吸いとって成長するその蔓草は、一度根を下ろすと引き抜くのが酷く困難なシロモノで、アディラリアも本当に危機的な状況でなければそんなものを使う気など全くなかった。それが生えている間は、魔法を使っても蔓草が魔力を吸いとってしまうので、魔法は発動せず、蔓草が育つだけ。

 エルグヴィドーは胸を押さえて蹲るアディラリアの額に手をやり、顔を顰める。

「今、抜くと傷が開く。しばらくは、私が傍にいる」

 暗に守ってやると言われて、アディラリアは眉間に皺を寄せた。

「冗談じゃない!顔も見たくない!さっさと消えろ!」

 魔法で追い出してやろうと片手で魔方陣を描き出すと、その魔力を飲み込んで蔓草が茂りだす。舌打ちをしてアディラリアは力の入らない片手でエルグヴィドーの胸を押した。

「アディ、熱が上がる。もう少し寝たほうがいい」

 貧血で立ち上がることもできず、熱で暴れることもできず、アディラリアは子どものように抱き上げられてベッドに戻される。怒りのあまり滲んだ涙も、エルグヴィドーの指先で拭われてしまった。

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