第41話 アディラリアとその兄 1
悲鳴に続いて階段を駆け上がる音がして、リィザは庭から家の中に駆け込んだ。二階のアディラリアの寝室では少しの間誰かが言い争いをしていたようだったが、すぐにそれも止み、続いて階段を駆け下りる音が聞こえる。
恐々と廊下を覗き込むと、血で汚れたシャツを着た、黄緑にも見える不思議な金髪の男……エルグヴィドーが血塗れのサーコートに誰かを包んで担ぎ、バスルームに駆け込むところだった。
「あ、アート!?」
サーコートの中から零れて見えていた漆黒の髪に、リィザは思わず息を飲む。エルグヴィドーはリィザに一瞥もくれず、サーコートの中からアートを抱き上げて、バスタブにそっと横たえた。そして、蛇口を捻り湯を注ぎ込んでいく。
アートの体には青い蔓草が絡み付き、いくつも花を咲かせていた。
「ど、どうしたの!?アート……だ、大丈夫なの!?」
バスルームを覗いて真っ青になるリィザを押しのけ、エルグヴィドーは廊下に出る。リィザは恐る恐るバスタブに近付いて、湯に沈んでいくアートを見ていた。よく見ると絡んだ蔦草は、胸から下腹にかけて伸びる、獣にでも引き裂かれたような四本の傷をふさいでいて、湯に沈んだその傷口から紅い色彩が広がっていく。
出血多量で死んでしまうのではないかと思い、アートに手を伸ばすリィザだが、戻ってきたエルグヴィドーに小さく首を振られてしまい、アートをバスタブから引き出すことはできなかった。
エルグヴィドーは両手いっぱいに色々な薬瓶を持っている。その中身を惜しみなく盛大にバスタブに流し込むと、青い蔓草から青い色彩が染み出て、湯を青に変えていった。
アートは白い瞼を閉じていて、意識がない。
「アート……」
「その名を呼ぶな」
血の気のない白い顔に、死を思い浮かべて呼ぼうとするリィザを、エルグヴィドーは止めた。そして、バスタブの横に膝を付き、アートにゆっくりと囁きかける。
「アディ、私だ。ここに、君を害するようなものはいない。大丈夫だ」
その声に薄っすらと紫色の目が開き、次の瞬間、リィザは唖然とした。
リィザが記憶している限り、アートはいつも皮肉げで物憂げで斜に構えて苛立っている。けれど、エルグヴィドーを視界に入れた瞬間のアートの目は、酷く穏やかだった。
そして、至上の笑みを浮かべる。
「俺、死ぬのか?」
「死なない。死なせない」
掠れた弱々しい問いかけに、エルグヴィドーは冷たいとも思える硬い声で答えた。すると、アートはふっと唇の両端を持ち上げる。
「死ぬなら、腹上死がいいな……」
何を言っているのか意味が分からずきょとんとするリィザを無視して、エルグヴィドーは困ったようにため息を付いてから、血の気の失せたアートの頬にそっと手を添えて、青い唇に口付けた。
エルグヴィドーの唇を追うように手を伸ばしてきたアートに、エルグヴィドーは囁きかける。
「少し眠るといい」
「目覚める前に、俺を置いていくくせに」
諦めたようにふっと笑い、アートは目を閉じ長く息を吐いた。その吐息と共に、アートの漆黒の髪が色を失っていく。
淡い紫の光沢のある銀色の髪と、柔らかな曲線を描く白い体。
絶世の美女の体にも特に動揺せず、エルグヴィドーは自分のシャツが濡れるのも構わずバスタブに腕を差し入れてアート……アディラリアの体を抱き上げた。
アディラリアは安らかに眠っている。
「驚かせてすまなかった、リィザ。アディの命に別状はないから、安心してくれ」
濡れたズボンと下着を脱がせ、バスタオルでアディラリアの体を拭き、エルグヴィドーはアディラリアの体をバスロープで包んだ。それから、彼女を担ぎ、階段を登っていく。
「ルインが来たら、アディは一週間くらい動けないと伝えてくれ。私はアディについている」
蔓草の色素で青く染まったシャツの袖もそのままに、アディラリアの寝室に向かうエルグヴィドー。色素を失った蔓草は褪せた白色に変わっていた。白い花からは、甘い香りが漂う。
アディラリアと出会うまで、エルグヴィドーは笑ったことがなかった。
牢獄のようなレイサラス家の屋敷の中で、化け物のような老獪な魔法使いたちにひたすらに魔法を教え込まれる毎日。使用人は皆、魔法使いを恐れる人間で、エルグヴィドーと目を合わせることもなかった。
夜の闇に怯えて、悪夢に苛まれ、アディラリアが奇声を上げて飛び起きるたびに、エルグヴィドーはベッドを飛び降りてアディラリアの部屋に向かう。夜の廊下は冷たく足音が響いて、気味が悪かったが、エルグヴィドーが駆けつけるまでアディラリアは狂ったように叫んで泣き続けた。
「助けて!とお様が!かあ様が!」
幻影でも見ているのか、焦点の合わないアディラリアの紫の目から、とめどなく涙が零れ落ちる。その涙を拭いてやり、小さな体をぎゅっと抱き締めてエルグヴィドーは眠った。
十二歳で『星の舟』に入るまでの毎日をそうやって過ごし、『星の舟』に入ってからも毎晩、通信の魔法を使ってアディラリアと話をして、眠るまで見守っていた。
いつ頃からアディラリアがよそよそしくなったのか、エルグヴィドーはよく覚えていない。
いつの間にか、アディラリアは、アートとアディラリアという二つの名前で呼ばれるようになっていて、アディラリアは色んな男の元を渡り歩き、アートは衝動のままに破壊行為を続けていた。
ほんの少しの空白。
エルグヴィドーがほんの少しアディラリアから視線を外しただけ。
たったそれだけの時間で、彼女が全く変わってしまったような錯覚を、エルグヴィドーは抱いた。そして、今も抱き続けている。
まだアディラリアもエルグヴィドーも『星の舟』にいた頃、あの褐色の肌の魔法使いは、少し厚めの唇の片端を上げて、エルグヴィドーに囁いた。
――アディを、抱いたよ。
その言葉を、エルグヴィドーが酷く不思議そうに聞くので、彼は少し拗ねたように眉根を寄せる。
――つまらないな。もっと怒るかと思ったのに。
どういう権利があってアディラリアのことで親友であるその褐色の肌の男のことを怒らねばならないのか、エルグヴィドーには分かりかねた。その動かない感情を、褐色の肌の男はつまらなく思ったようだった。
――アディに、『子どもが生めるか?』って聞いたら、そういうのは自分でも分からないものだって答えられて、じゃあ、試してみようかって言って、彼女に酒を飲ませて、抱いたんだ。
それを彼が自分に聞かせてどうするのだろうという気持ちと同時に、なにか引っかかりを感じて、エルグヴィドーは自分よりも背の高い男をじっと見つめる。
――アディを、殺そうとしているのか?
エルグヴィドーが直感的に口にした言葉に、褐色の肌の男は目を伏せた。
――アートとアディが表裏一体なら、そうしないと、アディからアートを得ることはできないだろう?
その言葉を脳が認識するよりも先に、エルグヴィドーは眼前の男に飛び掛っていた。
決して敵わないと知りながらも。
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