第38話 アディラリアと古国の王 4
頭を抱えているのに、左の手をサウス・レンセが握って拳の形にしているのに、アディラリアは嫌な予感がしていた。けれど、サウス・レンセの慌てぶりは止まらない。
「どうしよう……前途有望なお嬢さんに失礼を……」
「こんな少女に乱暴を働くとはキエラザイト魔法騎士団の名も地に落ちたな。即刻この場から消え去り、二度と私と私の弟子の前に姿を現さないでもらおうか」
野良猫でも追い払うような仕草で片手を振るアディラリアに、サウス・レンセは助けを求めるような目を向けた。
「あ、アートは?アートはどこだ?いっそ、彼の裁きを……」
周囲を伺うサウス・レンセに、アディラリアはリィザを抱きしめたまま半眼になる。
「汚い死体をここで晒す気?冗談じゃないよ、そんなの。どうせなら、マイス坊やの胸で死んでおいで」
「そ、それは構図的にとっても嫌だな。だって、アタシ、マイス坊やの二倍は質量がありましてヨ?」
二倍とまではいかないはずだが、大げさに言うサウス・レンセに、アディラリアはため息を付いてそっとリィザから離れた。その温もりを惜しむように伸ばしかけたリィザの手が、力なく落ちる。
「大丈夫だった?」
優しい声で問いかけられてリィザは小さく頷いた。
「アディと間違えて後ろから抱き締めただけだ」
誓ってそれ以上のことはしていないと真面目な顔で右手を上げるサウス・レンセに、アディラリアは顎を反らす。
「私と、リィザを?」
言われてサウス・レンセは、長身でしっかりと胸が大きくそれ以外はほっそりとしているアディラリアと、痩せて小さく十歳という年齢よりも幼く見えるリィザを見比べた。
「アディのベッドにいたから……」
「へぇ?私と、リィザを間違えたわけだ、君は。この私と、リィザを」
背丈格好年齢全てから間違いようのない二人を間違えたと言い張る理由が見つからず、サウス・レンセは再び左手で拳を作ったまま頭を抱える。
「悪かったと思ってる。嫁の貰い手がなくなったら、俺が責任をとるよ」
長く息を吐いて言うサウス・レンセがこの上なく真剣なことを知っているアディラリアは、思わず苦笑した。笑われていると気付いて、サウス・レンセは右手で頭を掻く。
「俺が女性に弱いのくらい、知ってるだろう?頼むよ……彼女に弁解をさせてくれ」
姉と妹に挟まれたサウス・レンセは、威厳ある姿で年齢的にも大人であるのに、女性には非常に弱かった。膝を折って謝りかねないサウス・レンセに、リィザが慌てて口を開く。
「だ、大丈夫。ちょっとぎゅっとされただけだから」
嫁の貰い手などという言葉まで持ち出されると口を挟まずにはいられなくなったリィザに、手を差し伸べてアディラリアは寝台から降ろしてくれた。
「さて……こんな変態男のいる部屋からは逃げて朝ご飯でも食べてくるといいよ」
軽く背を押されて、振り向くとアディラリアはサウス・レンセの近くに向かっている。長身で逞しいサウス・レンセと、長身で女らしいアディラリア。褐色の肌に黒髪の彼と、純白の肌に淡い紫の光沢のある彼女が並ぶのは、よくできた一枚の絵画のような光景だった。
二人の美しい立ち姿に、何故胸が痛むのか、リィザはよく分からない。
しかし、アディラリアの髪が毛先から徐々に黒くなり始めていることに気付いて、リィザは視線を反らして戸口に急いだ。
戸を閉めた瞬間に、物凄い爆音が部屋から響いたのを、リィザは耳を塞いで聞かなかったことにする。
「ふざけるなよ、このアホ野郎!折角、俺がいい気分で研究室に篭ってたのに、わざわざ空間転移術まで使って現れやがって……リィザがいなかったら、即座に踏みつけてやってたぞ!」
発動する寸前に身をかわしたサウス・レンセの足元の木の床が、見事な裂け目を作っていた。続いて発動しようとする魔法を察知して、サウス・レンセは飛び退りながら両手を掲げる。
「待て、アート。お前の大事な姉アディの部屋が壊れるぞ?」
存外のんびりと言われて、ストレートの黒髪を背に流した目つきの鋭い男は盛大に舌打ちをした。
「何度も言ってるだろうが、この大馬鹿野郎!俺がアディだよ!」
「いや、どう見てもお前はアートだけど。随分、ドレスが似合わないとは思うけど……」
指摘されて黒髪の男、アートはあっさりとドレスと靴を脱ぎ捨てる。慣れた様子で戸棚に飛びついたサウス・レンセがその中から取り出したズボンを投げると、アートは不機嫌面でそれに両足を入れた。
軽く飛び跳ねてズボンを履いたアートに、シャツを投げてやる気はあまりなく、その滑らかで白い上半身をサウス・レンセはじっくりと見る。『星の舟』にいた時代から無頓着でよく傷を作っていたが、薬剤に詳しいためか一つも痕は残っておらず、アートの肌は白くきれいだった。不機嫌そうに斜め下から見上げてくる紫の目に、サウス・レンセは緩む頬を隠せない。
「アートだ!」
思わず両腕を広げると、容赦なく鳩尾に蹴りを入れられてサウス・レンセは体を折って咳き込んだ。アートは涼しい顔で、足を踏み鳴らす。
「次はどこに蹴りを入れて欲しい?」
「蹴るのは、勘弁してくれ」
仕方なく距離をとるサウス・レンセに、アートは構えながら冷ややかな目を向けた。
「お前のせいでリンフィスに絡まれたぜ。腹いせくらいさせてくれ」
「リィンに?じゃあ、ラージェとリィンが動いたのか?」
問われてアートは突然ふっと体の力を抜き、倒れるようにしてベッドに仰向けに転がる。サウス・レンセはアートの攻撃を警戒しながら、ベッドの脇に近寄って彼の顔を覗き込んだ。
アートは不気味に微笑んでいる。
「不愉快だったぜ。俺の男に手ぇ出してきやがった」
「エルに?」
驚き目を見開くサウス・レンセに、アートはがばっと起き上がって座った状態から、腰を軸に体を回転させるようにして蹴りを放った。サウス・レンセは上体を反らしてそれをかわす。
「エルグは兄だ!」
「それじゃ、誰……ん?あの魔獣クン?」
身を乗り出してアートの髪を嗅いでみて、サウス・レンセは呟いた。その側頭部に手刀を入れようとするアートの手を、サウス・レンセは視線すら向けず右手で止める。
左の手は握りしめて拳を作ったまま。
「何を、持ってきた?」
視線を左の拳に向けるアートに、サウス・レンセはため息を付いた。
「ちょっと、厄介なものだよ。できれば、アディに引き受けてほしかったんだけど……彼女、どこかな?」
呪詛に捉われて本質が見えないがために、未だにアートとアディラリアの関連性を見出せないサウス・レンセを、アートは小声で罵る。アートの綺麗な顔に似合わぬおぞましい言葉の羅列を、サウス・レンセは聞かなかったことにした。
「いい加減に、馬鹿げた茶番はやめてくれ。お前が何をしたいのか俺はおぼろげながら掴んでるけど、それに命を懸ける価値があると、思うのか?やり遂げることすら、不可能だと俺は思うぜ?」
その問いかけにサウス・レンセは深く微笑んだ。
「俺にも、分からないよ。でも、それができなければ、俺は死ぬこともできない」
サウス・レンセが悲しげな表情をしていることに、アートは限りない苛立ちを感じる。彼は加害者であるはずなのに、誰よりも深い悲しみを抱え続けていた。多分、アートが思っている彼の年齢よりも彼はずっと長く生きている。そして、その生きている時間のほとんどを、一つの目的に捧げていた。
「俺はね、大陸を救いたいんだよ」
「お前は、馬鹿だ」
語りだそうとするサウス・レンセをずばりと切り捨てると、彼は少し安堵したように微笑む。
「うん、俺は馬鹿だ。アートがそれを知っていてくれるなら、俺はどんな汚名を被っても構わない気になれるよ。お前は、俺に勇気をくれる」
勝手なことを言うサウス・レンセを、ベッドの上に立ち上がったアートは容赦なく罵った。
「ゼラを犠牲にして、マイス坊やを騙し、エルグと決別し、ラージェを盾にして、アディに変なもの押し付けて……お前、それが本当に正しいと思ってるのか?」
ベッドの高さの分だけ身長を割り増して上から見下ろすアートに、サウス・レンセは緩く片手を掲げる。もう片方の手は相変わらず握ったままで、アートはその拳を睨み付けた。
「正しいかどうか、分からないんだ、俺も。でも、俺は国を捨てた。見捨てたんだ。大切な人も、守りたいものも、全て捨てて逃げた。もう、今更、惜しいものはないんだよ」
明るく大らかで少し情けなくそれでいて男らしいサウス・レンセ。その胸の奥に穿たれた埋めることのできない虚ろな穴に、かつてアディラリアも惹かれた。けれど、自分ではその穴を埋めることはできないし、自分の足りない破片ピースを彼では埋められないと、アートはとっくの昔に気付いている。
「俺に手を貸して欲しい。俺は、お前を開放してやれる。レイサラスの名からも、呪詛からも」
サウス・レンセが右手を差し伸べてくるのを、アートは信じられない思いで見つめた。
「俺が、欲しいのか?」
求めてくれるその手はかつてアディラリアに向けられ、やがてティーやゼラに方向転換されたもの。それが今更、アートに向けられても、信じられるはずがない。
「お前が……君が必要だ」
けれど、アディラリアに向けられたものよりも数倍甘やかなサウス・レンセの表情に、アートは奥歯を噛み締めた。
レイサラスの名前からの開放……それは、アートが……アディラリアがずっと望んでいるものに違いない。
悪魔のように魅力的に微笑んで、サウスが寝台に足をかけた。伸ばされた右手は、今にもアートの手に触れそうである。触れればそこから崩れるように陥落するのが分かりきっていて、アートは腕を振り回してそれを払った。
「嘘だ!そんなのは嘘だ!」
――誰も、お前の本当の姿を愛しなどしないんだよ。
レイサラス家の老人たちの声がアートの脳裏をよぎる。
「六つ名のサウスも大したことないな。レイサラス家のお人形に垂らしこまれるなんて」
自虐的な言葉を吐くアートに、サウス・レンセは首を振った。
「君をそんな風に思ったことはない」
「口ではなんとでも言えるさ」
喉の奥で笑うアートの左手首を、サウス・レンセは無造作に掴む。引き寄せられて抱き込まれ、アートは目を剥いた。
「じゃあ、体で分からせるか?」
「この、エロオヤジ!」
口付けられたら舌を噛み切ってやるつもりで、がちがちと歯を鳴らすアートの耳元に、サウス・レンセは囁きかける。
「アートとして……レイサラスの名前も、呪詛も脱ぎ捨てて、ただのアートとして、こちら側に来て欲しい」
耳にかかる吐息に、アートは身を竦めた。サウス・レンセの発する一言一言……そして、纏う僅かな香りが、魅了の魔法を宿していることに気付いたが、今更抵抗することもできない。心臓が痛いほどに脈打って、この男の口付けを受けられるならば、どんな頼みも聞いてやりたい気分に心が傾いてきていた。
「ゼラか……」
「気付いたか……でも、すぐに忘れる」
ゼルランディアに渡した香水を、どういう経路ルートかは分からないが、サウス・レンセが手に入れて使ったとすれば、こういう効果が出ても仕方がない。どちらかといえば防御に特化したアディラリアの時ならばその程度の薬品は簡単に防げるが、攻撃に特化したアートでは防ぎようがなかった。
「愛してる。俺に、愛されたいだろう?」
低音の囁き声が、甘くアートの思考を翻弄していく。口の内側を噛んでアートは必死にそれに耐えた。
アディラリアの姿に戻れるのは魔法による酔いが完全に醒めてから……それには、最低でも一時間はかかる。
「嘘だ。そんな言葉、ティーにもゼラにも言ったじゃないか」
誘惑を退けようとするアートに、サウス・レンセは眉尻を下げて苦笑した。
「嫉妬したのか?」
「断じて違う!」
揶揄するような声に断言すると、サウス・レンセがもう一度耳の中に言葉を吹き込む。
「君だけだ」
「卑怯な呪文、使いやがって!」
口説き文句の一つ一つに魅了の魔法チャームがかけられていることに気付きながらも、頭の中に広がっていく桃色の靄を払えず、アートはサウス・レンセを突き飛ばした。その反動で寝台から転げ落ち、床にしりもちをつくアートに、サウス・レンセが右手を差し出す。その手を無視して、アートはサウス・レンセの左手を指差した。
「それは、何だ?」
聞くまでもなく答えは分かっている。
けれど、サウス・レンセは左の手をそっと前に出して、その手を少し悲しげに見下ろした。
「呪詛だ。握ってないと、対象者ターゲットめがけて飛んでいってしまうんだ」
その物言いに、アートは目を瞬かせる。
サウス・レンセという男の魔法の質は、アートと少し似ていた。彼は防御や解除など、細かい魔法作業を苦手とする。だから、呪詛を掴んで止めたものの、それを分解することができず、育ちのよさから来るお人好しゆえに目標を逸らして誰かに押し付けることもできず、ずっと握っていたのだろう。
そこまで考えて、アートは霞を取るように頭を振ってから、至極真面目な顔で問いかけた。
「何日、寝てない?」
その問いかけに、サウス・レンセはぐっと言葉に詰まる。
眠った状態では握った拳は解けてしまい、掴んだ呪詛が開放されてしまう。そうなれば折角止めた努力が水泡に帰すため、眠らないくらいの芸当は極めて軽い気持ちで行う男だと、サウス・レンセをアートは評していた。しかし、キエラザイト帝国の王宮から離れない彼が、アディラリア宅に急に現れたということは、それだけ切羽詰っていたと言うことも伺える。
「三日?」
控え目に提示した数字に、サウス・レンセは頷かなかった。だから、もっと長い期間だとアートは察する。
「まさか、五日?」
その言葉にも頷かず、視線を逸らしたサウス・レンセに、アートは思わずその胸倉を掴み上げていた。
「八日か?十日か?死ぬぞ、お前!」
「し、死ねない呪いがかかってるから、大丈夫だよ!」
場違いに明るく言ったサウス・レンセに、アートは頭を抱える。
体力に自信がある『月の谷』出身の超人的魔法使いとはいえ、十日も眠らなければ弱るし神経が保てないはずなのに、この男はどれだけの時間、呪詛を握って留め続けたのだろうか。
自己申告どおり、死なない呪いがかかっているサウス・レンセは、それに矛盾する呪い……例えば、暗殺の呪いなどは自らの身に目標を逸らして対象者を守ることもできず、ただ保持することしかできなかった。
「誰に向けられた呪詛なんだよ、それは?」
いい加減、苛立ちも頂点に達したアートに、恐る恐るサウス・レンセが答える。
「ゼルランディアと、その子ども」
アートはめまいを覚えその場に座り込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます