第39話 アディラリアと古国の王 5
目標を逸らさない限り、その手を開いた瞬間に、呪詛は対象者の元へ向かう。しかし、アディラリアならともかく、アートではそれを払うことなどできない。
それなのに、左手を握ったまま、サウス・レンセは右手を差し出すのだ。
「そんなのはどうでもいいんだ。アート、俺と来てくれ」
再び言葉に魔法が混じってきて、アートは苦笑する。こんな切実な状態でも、サウス・レンセは自分の身を省みない。その姿に呆れを通り越していっそ感心の念すら浮かんでくる。
「馬鹿だろ、お前」
「エルにも、よく言われたよ」
笑うサウス・レンセの目に、懐かしい色を見出し、アートは油断してサウス・レンセの手に堕ちそうになった。けれど、必死に心を立て直して、質問を口にする。
「どうするんだよ、それ。いつまでも握ってるわけにはいかないだろう?」
言われてサウス・レンセは叱られた子どものような情けない表情になった。
「そうだよな……ラージェ辺り、引き受けてくれないかな?」
「お前、今度こそ、リンフィスに殺されるぜ?」
ただでさえ、先にかけられていた死なない呪いのために、呪詛を弾いてしまい、一番近くにいたラージェに呪詛が移ったことを、リンフィスは物凄く怒っている。顔を合わせれば、サウス・レンセと殺し合いを始めることは確実であった。その怒りを更に助長させるようなことを、よく平気で口にできるものだと、アートはサウス・レンセの肝の太さに呆れ返る。
「だって、アディは引き受けてくれないだろう?」
子どものように拗ねるサウス・レンセに、「俺がアディだよ!」と言いかけて無駄だと悟り、アートは舌打ちした。これが今日何度目の舌打ちになるか、数えたくもない。
「アートとアディが、カードの裏と表みたいに、同時に存在できない双子だってことは知ってるんだ、俺も」
全く的外れなことを言うサウス・レンセに文句を言おうと口を開きかけたアートだが、目の前の男の目が金色に輝いていることに気付き、口を閉じた。
緩やかに波打つ漆黒の髪、濃い蜜を流したような褐色の肌、金色に輝く獣のような双眸。
魅入られる。
目を離せなくなる。
「レイサラスも、呪詛も、アディラリアも、全て脱ぎ捨てて、俺のものになるんだ」
最早呪いのように囁かれるその言葉。
――だって、美しく優しいアディラリアが、あんな壊れたアートだと気付けば、誰もお前を愛してなどくれないよ?
それと重なる、かつて囁かれた台詞。
「俺が、アディだ。俺が、アディラリアなんだよ?」
頭ががんがんと鳴って、真っ直ぐに立っていられないアートは、よろけながら壁に手を付いた。霞んでいく視界の中で、差し伸べられたサウス・レンセの手だけが鮮明に見える。
開かれた右手と、握られた左手。
右手が求めるアートと、左手が求めるアディラリア。
そのどちらも自分なのだと、アートは言いたかった。
けれど、意識を保っているのがやっとで、言葉すら紡げない。
泣き笑いの顔で、アートはサウス・レンセの手を見つめた。泣きたくなどないのに、切なさに胸が軋んで涙が溢れ出てくる。
サウス・レンセの左手に握り込まれているのは、恐らく、ゼルランディアですら防げない強い強い死の呪い。
それを押し付けるということは、相手が死んでも構わない、ということ。
アディラリアの死を望みながら、アートを誘惑するサウス・レンセ。
アートにアディラリアを捨てさせようとする、サウス・レンセ。
本当に自分の身が二つに裂ければいいのにと、アートはぼんやりと思った。
アートとアディラリア。二人になれば、何の問題などない。
一人が死んで、一人が愛される。
それは自分でも認めたくないほどに悲しいことだったけれど、死んでしまえば胸の痛みもなくなるだろうと思えた。
けれど、実際にはアートはアディラリアであり、アディラリアはアートである。
誰一人として、二人が同一人物だと認めてくれなくても。
二人を別人と思わせる呪いが、理解を阻んでも。
「俺を、愛してるの?」
泣いているアートに戸惑いながらも、サウス・レンセは小さく頷いた。
「じゃあ、アディは?」
問いかけるアートに、サウス・レンセはため息を付く。
「アディとは、終わったんだ」
その答えを聞いた瞬間に、アートはサウス・レンセの手を掴んでいた。
選んだのは、左手。
その手を躊躇いなくアートは自分の裸の胸に押し付けた。無理やりに開かれた指の間から、赤黒い霧が漏れ出し、巨大な鉤爪となってアートの胸から腹までを引き裂く。
「アート!?」
叫んでアートの体をサウス・レンセが抱きとめようとした。けれど、その手をアートは振り絞った最後の力で振り払う。
「この、呪詛は、受けてやる……。お前は、キエラザイトに、帰れ」
床に倒れ込み、血を吐きながら告げるアートの傍にサウス・レンセが膝を付いた時、寝室の扉が開かれた。
飛び込んできたのは、黄緑に近い金髪の男……アディラリアの兄である、エルグヴィドー。
「エル、アートが……」
助けを求めるように叫んだサウス・レンセに一瞥すらくれず、エルグヴィドーは純白のサーコートが血に濡れるのも構わず、アートの体を抱き起こしていた。
「時よ止まれ、凍り付け。一切の動きを禁じる」
エルグヴィドーの呪文に呼応して、アートの傷口から零れる血が止まる。それを確認してから、エルグヴィドーはアートの指先に目をやって小さく問いかけた。
「アディ、どれだ?」
その問いかけに、アートの左手の薬指がぴくりと動いたのを見て、エルグヴィドーはすぐにそこにあった付け爪を剥がす。それを傷口に押し当てると、そこから青い蔓が延びてアートの傷口に根を張って塞いでいった。
傷口を塞ぎ終えると体に巻きつき、首の辺りに青い花を咲かせるその蔓草に、エルグヴィドーは囁くように礼を言う。
それから冷ややかな目でサウス・レンセを見た。
「失せろ。二度と、私の妹に近付くな」
「いや、それはアート……」
弁解をしようとするサウス・レンセだが、エルグヴィドーの目のあまりの冷たさに言葉を失い、頭を垂れる。
「すまない……」
「謝罪など意味を成さない。二度と顔を見せるな」
蔓草が青い花を咲かせるアートの体を抱き締め、エルグヴィドーは静かに告げた。
返す言葉もなく、サウス・レンセは軽く片手を上げて空間転移の魔法を使って姿を消す。
それを確認してからエルグヴィドーはサーコートを脱いで、もう意識のないアートの体を包み込んで抱き上げた。
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