第2話 魔法医と魔獣  1

 何か叫んでいたような気がする。


 目を開けると薄暗がりの中に、クリーム色の壁紙を貼った天井が見えて、ゼラはほっと息をついた。

 明け方の冴えた風がカーテンを揺らす。

 嫌な予感がして窓際まで裸足で駆けて行くと、南西の空に閃光が走っていた。

「ゼラ先生、ゼラ先生!」

 窓の下から声をかけられて、ゼラは身を乗り出して庭を見る。各種の薬草が植えられた庭は、毎日庭師の手によって丁寧に世話をされていて、こんな田舎には相応しくないほどに整えられていた。

 声をかけてきたのはその庭師で、ゼラは六十を過ぎた老人を見下ろして安心させるように少しだけ笑む。

「魔法使いの小競り合いでしょう」

 ゼラが小さくため息を付くと、庭師もゼラを見上げて頷いた。

「カリンサ公とアルセス公がまた、揉めてるらしくて、キエラザイトとバッセルの国境付近は、一触即発状態らしいよ」

 騒ぎで起きてきただろう庭師は、どこか疲れたような顔をしている。キエラザイト帝国の最南、カリンサ領の端の端の田舎の小さな村ですら、隣りのバッセル帝国が攻め入れば戦場になりかねない。庭師は幾度も起こった戦争を体験しているために、魔法使いが戦う気配がするとすぐにゼラの家に駆けて来た。

「魔法使いは殺し合うものですからね」

 虚しく呟きながら、ゼラは窓際から離れ、部屋を抜けて階段を降りる。一階の廊下を駆けて玄関を開けると、縁石に途方に暮れた様子の庭師がしゃがみ込んでいた。

「ゼラ先生は殺し合わないだろう?」

 問われてゼラは頷く。


「魔法使いの中でも、治療や薬剤を担う者は、不可侵、と魔団法に定められていますからね」


 大陸の魔法使いの養成機関である『星の舟』を中心として魔法使いを取り締まる魔団法は、『星の舟』から魔法使いを斡旋してもらっている全ての国……ゼラの暮らすカリンサ領のあるキエラザイト帝国、その隣りのバッセル帝国、北のリトラ共和国、そして南の自由都市連合国、最南の傭兵の自治区である『月の谷』ですらも、守らねばならない法である。

 魔法使いはその数の少なさゆえに、魔法使いでないものが魔法使いを殺すことは決して許されていない。けれど、魔法使い同士の殺し合いを魔団法は規制してはいなかった。

 それは魔法使いという者が、最強の地位を求めて殺し合わなければならない宿命なのだということを、暗に認めてしまっているためだった。

 魔法使いは魔法を使うための『契約名』というものを持つ。また、他の魔法から身を守るための『守り名』というものも持つ。それらは多ければ多いほど力が強い魔法使いとなれるのだが、『星の舟』でどれだけ研究を積んだとしても、名前は安々ともらえるようなものではなかった。

 名前を増やす一番簡単な手段は、他の魔法使いを殺し、奪うことである。

 故に、魔法使い同士が殺し合うことは、いわば宿命とも言えるのだ。


 けれど、それには例外がある。

 魔法使い達は皆、魔法薬などで自らの魔法を高めるのだが、その魔法薬を調合できる存在……治療や薬剤作りを担う魔法使いは、殺すことが魔法使い全体の大きな損失になるので、許されてはいなかった。

 ゼラはその例外である、魔法医だった。

 しかし、短い黒髪に黒目がちの目、ノースリーブのシャツにハーフパンツという出で立ちは、田舎の少年のようで、とても魔法医とは思えない。

 どぉんと地を揺るがす轟音が響き、ゼラは形のいい眉を顰めた。視線の先で空が赤く染まっている。

「大筒……?アルセス公の国境軍が出撃したかな?」

 火薬を詰めた巨大な弾を飛ばす大筒は、リトラ共和国で製造されているという幻の武器『銃』と同じく、製造技術が低いためにほとんど普及していない。それを持っているのは、帝国の軍隊くらいのものだった。

「先生!浮城だ!」

 怯えた口調で庭師が指差す頭上から、大きな影が落ちる。物凄い勢いで通り過ぎたその影の主は、朝靄の中遥か天空を渡る浮城、『星の舟』に違いなかった。

 球体を半分に切り、丸い部分を下に、平たい部分に白亜の塔と学院、そしてそれを取り巻く町を乗せた『星の舟』。その行く先は今正に小競り合いが起こっている国境付近に違いなかった。

「魔法使いが降ります……すぐに騒ぎは治まるでしょう」

 それでどれだけの被害が出るかを考えるだけで憂鬱になって、庭師の隣りにゼラがしゃがみ込むと、庭師は皺だらけの顔で不安そうにゼラを見てくる。

「先生も呼ばれるのかね?」

 その問いかけにゼラは短く息を吐いた。

「どうでしょう……。さて、朝食に付き合って下さるんでしょう?」

 勢いをつけて立ち上がったゼラに、庭師は小さく頷く。

 ゼラは裸足のまま玄関を潜り、キッチンに向かった。手早くパンを切り、オムレツを作って庭のデッキに据えられた白いテーブルに運ぶゼラ。

 お茶を入れる途中で、リビングの隅の大きな木彫りの蛙の青い目が光りだして、ゼラは庭師に先に朝食を摂るように告げてそちらの方へ向かった。

 ゼラが蛙の頭を撫でると、蛙が口を開きその中に小さな人間の姿が映し出される。きらきらと輝く薄紫色の髪の美女を認めて、ゼラは目を丸くした。

「アディ?どうしたの?」

 問いかけると小さく映し出された美女は、眠たげな紫の目を瞬かせ、喋りだす。

『久方ぶりだね、ゼルランディア……四つ名の同胞よ。って、正式な挨拶は省いてもいいかな?』

 気だるく述べる声に、ゼラは笑ってしまった。

「正式な挨拶なんて、今時、する人の方が稀だよ、五つ名のアディ?」

『だって、最近色々と面倒くさくてさ。名前くらい言って牽制してからじゃないと、話も出来ない……って、ゼラを牽制したいわけじゃないんだ。ちょっと、伝えておきたいことがあって』

 急いでいるようには見えないだるそうな口調の中に、付き合いが長いからこそ分かる焦りを感じ取って、ゼラは首を傾げる。

 名前が長いほど力の強い魔法使いとされる中で、五つ名のアディはかなり高位の魔法使いであった。その彼女が名前を誇示しなければならないような事態が起こっているのだとすれば、ゼラにとっても他人事ではない。


『マイス坊やの暗殺劇はご存知だろ、ゼラも。その関係で、私に帝都召集がかかったんだけど、こっちは一応、どこにも属さぬ根無し草。自由都市連合の自由魔女なわけで、もちろん断わったんだ。それで、君にも来ると思うけど、絶対に断わるんだよ?いざとなったら、身一つでこっちに逃げておいで』


「マイス坊や?」

 思わず問い返したゼラに、アディは深く頷いた。

『そう。アスティール・マイス・キエラザイト坊や』

「アスティール・マイス・キエラザイトって……キエラザイトの皇帝陛下じゃないの!?」

『坊やは坊やだよ。まだ十二歳のオコサマだよ?』

 憲兵が耳にすれば卒倒しそうなことを言うアディに、ゼラは苦笑する。魔法使いにとって身分や地位は全く関係がないというが、それを徹底実践しているのは彼女くらいではなかろうか。

『師匠は、君を守るために君に薬草学を学ばせて、そんな片田舎に引っ込んだんだからね。絶対、自分から厄介ごとに首突っ込むようなこと……』

 人差し指を立ててアディが熱弁する最中、突如、ぶつりとアディの姿が消えた。そして、代わりに無機質な声が蛙の口から飛び出す。


『キエラザイト帝国の魔法医、シノ・ゼルランディア。帝都への召集を命ず』


「応じなかった場合には?」

 ゼラの冷静な問いかけに、無機質な声は答えた。

『キエラザイト帝国より追放を命ず』

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