第5話 魔法医と魔獣  4

 女は、イージャと名乗った。

「キサ・イージャ……四つ名の魔法使いですね」

 言い当てられると、イージャは片眉を吊り上げる。

 屋敷の中に入っていく気にはならず、玄関口で立ち竦むゼラのところへ、イージャは階段を降りてやってきてくれた。

 重い音を立てて独りでに閉まった扉を恨みがましそうに一瞥してから、ゼラは覚悟を決めて鼻と口を押さえる手を外してイージャに向き直る。イージャは驚きの表情を作っていた。

「よく知ってたわね」

 この大陸では、北のリトラ共和国を除いては、家名の後に個人名を名乗る風習がある。家名は家族を繋ぐ大切なものと思われているために、気軽に呼んでいいものではない。呼ばれると怒り出すものも少なくないほどだ。イージャもその例に漏れず、不快そうに眉根を寄せている。

「四つ名でも、特に同列なんて思ってないわよ。あたしは呪術系の魔法使いだから……」

「えぇ、知っています。あなたにツァオラが殺されたことも」

 同時期に地上に降り、バッセル帝国直属の魔法使いとなった女の姿を思い出し、ゼラは壮絶な笑みを浮かべた。

 ゼラの師匠であったルヴィウスも、ツァオラの行く末には関心があったらしく、その死のニュースはすぐに入ってきていたのである。


「魔法使いは殺しあうものよ?相手の名乗りに、名乗り返せば、戦いが始まる。そんなものでしょう?」


 妖艶に赤い唇を歪めたイージャに、ゼラは目を細めた。


「そうですよ。だから、あなたが明日、殺されても仕方がないですよね」


 言いながら、ゼラは横髪を軽く後ろに払うような仕草をする。ちらりと見えた涙方のイヤリングに、イージャは半身で構えを取った。

 薬剤系の魔法使いが使うのは薬だけではない。毒もまた、その範疇にあるのだ。しかしながら、魔法ではなく毒で相手を倒したとしても、魔法使いとしての名を奪うことはできないと魔団法で定められている上、毒での殺害は魔法使いの風上にも置けぬということで、魔団法によって禁じられている。

「ここには、あたし以外に七人の魔法使いがいるわ。毒を使えば、すぐに『星の舟』に報告される……お互い、無益な争いはすべきじゃないわよね?」

 逃げ腰になりつつも、いつでも魔法が編めるように両手を胸の前で緩く交差させたイージャに、ゼラは両手を掲げて見せた。

「ただのハッタリですよ。この通り、人畜無害の魔法使いです」

 情けないような笑顔に、イージャはほっとして両手を脇に下ろす。

「さて……そろそろ、説明させてもらってもいいかしら?」

 気を落ち着かせるために豪奢な巻き毛を片手で撫でながら、問いかけるイージャに、ゼラはおっとりと頷いた。

「私も、この悪臭の原因を知りたいです」

 積極的なゼラの言葉に、イージャは余裕の表情を取り戻す。

「バッセル帝国のアルセス公が、アスティール皇帝陛下の暗殺を企てていたという話は聞いたかしら?」

「風の噂で」

 ゼラの家に来る話し好きの老人たちがそんなことを言っていたのを思い出し、頷くゼラにイージャは陰鬱そうに額に手をやった。

「アルセス公は否定しているんだけどね、彼の領内で暗殺のための呪具と毒薬……そして、魔獣が見つかったの」


「魔獣?」


 聞き捨てならない単語に、ゼラは目を瞬かせる。

 魔獣といえば、魔法で作られた獣……もしくは、魔法で改良がなされた獣のことを指す。前者は『星の舟』の許可を得てのみ作ることが許されるが、後者は世界の理事態を歪めてしまうとして、大陸の均衡を守る『星の舟』は絶対の禁止事項に定めていた。

 もし、それをバッセル帝国を構成する四つの領地のうち、一つを治めるアルセス公が無許可で作らせていたとしたら、魔団法を破ったとして『星の舟』から厳しい罰則が科せられ、作った魔法使いは『星の舟』に強制退去させられるだろう。

 作らせたのではなくて、現存の生物を改良したともなれば、アルセス領内の魔法使い全部が『星の舟』に強制撤去させられるかもしれないのだ。

「素地ベースは、何ですか?」

 嫌な予感を堪えつつ問いかけたゼラに答えず、イージャはどんどん奥に進んで階段を降り、地下室に向かう。地下室は石畳自体がべたべたとしていた、一歩歩くごとにブーツの底が粘つく気がした。

 かび臭い廊下を歩いていくと、段々と強くなる異臭に、ゼラは耐え切れず涙目でイージャを見つめた。イージャもさすがに耐えられなくなったのか、薄汚れた白衣の袖で口元を押さえている。


「どうぞ」


 地下室の奥の扉を示されて、ゼラは背筋が寒くなった。巨大な木の扉にはびっしりと、紋章が描かれている。光を放つ赤い色で描かれたその紋様には、ゼラもよく見覚えがあった。


 ルヴィウスの仮面にびっしりと描かれていた紋章。

 それは、呪詛避けのものだった。


 促されて押し開けた扉の向こうに、その獣はいた。


 大きさは二メートルくらいだろうか。

 妙に細長い手足をしているが、頭部は明らかに狼に酷似したそれ。

 床一面に描かれた紋様……それらが連なった魔法陣の中央に、押さえつけられたかのように倒れ伏しているその生き物は、正に、魔獣としか呼び様がない。

 どうやら全身が薄汚れた灰色の毛皮で覆われていたようだったが、腹部の毛が刈られて肋骨の浮き出た腹部が露わになっていた。その肌の上には一面、毒々しい赤紫で細かく紋様が書かれている。 

「重圧の魔法をかけて抑えているのよ。そうでないと、暴れまわって……。研究員が指を噛み千切られたわ」

 扉のところに呆然と立ち尽くすゼラの肩に、イージャが手を置いた。

「指を?大丈夫ですか?」

「いいえ。牙と爪に毒があるらしくて、重体よ」

 何でもないことのようにさらりと告げるイージャに、ゼラが目を剥く。

「どうして、その人を先に見せないんですか!?」

 ローブを翻し廊下を戻ろうとするゼラを、イージャは引き止めた。

「魔法使いでもない普通の人間ヒューよ。死んだところで、どうでもいいわ」

「同じ人間ヒューマンでしょう?」

「いいえ、あたし達は魔法使いウィザードよ?」

 イージャとゼラの視線が絡み合い、ゼラはすぐに話にならないと悟ってイージャを押し退けようとする。しかし、イージャはゼラの細い肩を掴んで放さなかった。

「毒の種類を割り出さなければ、あなたが行ったところでどうしようもないわよ。それにその子……」

 イージャの指差すままに、魔法陣の真ん中の獣を見つめ、ゼラは痛ましく眉根を寄せる。

 乱食いの牙のために閉じられない口からはだらだらと涎が滴り落ち、灰色の毛に覆われた性器からは尿が漏れていた。細かく痙攣するその獣は、とても正常な健康体とは思えない。


人間ヒューよ。しかも、年は十六~七」


 予測が当たっていたことに、ゼラはショックを受けた。

 人間を魔法によって改造することは、魔団法で定められた禁止事項で厳しく取り締まられているはずである。

 それなのに、何故こんなことが起こり得るのか。

「なんてことを……まだ子どもじゃないですか。それを……こんな実験動物みたいに……」

 思わず呟いたゼラに、イージャが楽しげに肩を竦めた。

「あなただって、ルヴィウスにお人形みたいに買い上げられたくせに?」

「違う!ルヴィウスは……!」

 激昂して言い返そうとするゼラだが、イージャが興味なさそうに視線を逸らして魔獣を見つめたことに気付いて、口を閉じる。


「とにかく、ゼルランディア、あなたに、この少年の呪詛を解明して、アルセス公が魔団法に反したという証拠を得られるようにして欲しいのよ。別に、刻んでも構わないから、その子」


 軽い口調で言ったイージャを、ゼラは睨み付けた。

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