第66話 時待ち  3

 扉が開いたとたんに、ユナ・レンセはアートの手首を掴む手を放し、部屋の中に駆け込んでいた。

 正妃の部屋の大きなテーブルにはお茶の用意がされていて、手前の長椅子にグラジナ、奥の長椅子にマイス、ルヴィウス、ゼルランディアの三人が座っている。ルヴィウスは膝の上に抱いた赤ん坊を覗き込み、笑顔を作っていた。

「ルヴィウス……」

 思わず駆け寄り、両腕を広げて再会の感動を抱擁で示そうとするユナ・レンセに向けられたのは、氷よりも冷たいルヴィウスの視線。

「生きてい……」

「近寄るな、若作り」

 空気が弾ける音がして、見えない壁に阻まれたかのようにユナ・レンセはルヴィウスの近くで足を止めた。非難がましい視線を向けても、ルヴィウスはもうユナ・レンセの顔も見ていない。

「こら、ルヴィウス、ひどくないか?旧友が愛の抱擁で再会を祝そうとしているのに」

「ゼルランディア以外の、十六歳以上の相手からの抱擁は一切受け付けない主義だ」

「こ、この、真性少年少女愛好者ロリショタめ!」

 指を差して言われて、ルヴィウスは悪びれなく頷いた。

「その通りだが、何か?」

 そして、もうユナ・レンセには全く興味のない様子で赤ん坊に笑顔を向けるルヴィウスに、ユナ・レンセは顔を顰める。

「マイス、垂らしこまれるんじゃないぞ。そいつは、お前が十六歳になった瞬間に、手の平を返すに決まってるんだからな!」

 忠告するも、マイスがすでにぼうっとした目でルヴィウスを見ていることに気付いて、ユナ・レンセは頭を抱えた。 

「ルヴィウス、お前、何をした?」

「何も。ただ、泣くこともできないくらいに張り詰めていてかわいそうだったから、抱き締めてやっただけだ」

 絶世の美貌の男から、優しい声をかけられて抱き締められ、陥落せぬものなどいないと知っていて、それをやってのけるのだ、この男は。しかも、この男には『魅了』の能力がある。

 背丈だけは育っているが、中身は殊更に幼いマイスなど、太刀打ちのしようもなかっただろう。

 巧妙に人の心の隙間に入り込んで、足元から瓦解させる。そんなことがこの男の特技だったとユナ・レンセは思い出した。だからこそ、ルヴィウスは得体の知れない男だとよく言われる。

「王様ユナ・レンセ、彼を捕らえて下さい」

 弱々しい声で呟くグラジナも、ルヴィウスに勝てなかった……それどころか、足元にも及ばず、歯牙にもかけてもらえなかったのだろう。

「無理だよ」

 ユナ・レンセが呟いた時、扉の前でこの場の空気を読んでいたアートが、肩を竦めながら歩み寄り、素早くグラジナの隣りに腰掛けた。グラジナが顔を顰めるのにも構わず、アートは細い足を組んでグラジナに笑いかける。

「コレがお噂の宰相様?顔も、胸も、頭も、大したことなさそうだな」

 頭はともかく、顔と胸は誰もが思っていても口に出さなかった真実を歯に衣着せず言い放つアートに、向かい側の席のマイスが思わず立ち上がった。その袖を引いてルヴィウスが再び座らせる。

「キエラザイト帝国を騒がせるという大罪を犯した魔法使いが、よくも偉そうな口を叩いたものですね」

「可愛くないなーこの女」

「女性はただ可愛くあればよいなどという時代錯誤なことが、魔法使いの中では常識なのですか?」

 城壁を破壊した魔法使いを前にして、物怖じしないグラジナの態度に、アートは感心して拍手を送った。

「見事なまでの命知らずだ。俺が本当に男だったら、惚れてるかも」

 軽口を叩くアートに、ユナ・レンセが目を丸くする。

「男じゃないのか!?」

「さぁてね。ほら、でかいのが立ってると邪魔だから、王様ユナ・レンセも座れよ」

 自分の家のような気軽さで椅子を勧めるアートに、ユナ・レンセは目を丸くする。

「誰なんですか、この失礼な男は」

 肩に回してこようとするアートの手を思い切り払い、ユナ・レンセを睨み付けるグラジナに、ユナ・レンセはアートに視線を送った。アートは肩を竦める。

「名乗っていいのか?」

 それが魔法使いにとっては宣戦布告となることを知っているから、グラジナが当人に聞くことを避けているのは分かっていたが、ユナ・レンセの口から紹介するのも不自然な気がして、困りきったユナ・レンセはルヴィウスに視線で助けを求めた。

 ルヴィウスは向かいの長椅子のことなど全く無視して、赤ん坊をゼルランディアに預けて、優雅な手つきでティーポットを持ち、豪奢なティーカップを三つ並べて、自分とマイスとゼルランディアの分のお茶を用意している。ルヴィウスに焼き菓子を渡されて、マイスが目元を赤く染めているのが視界に入って、ユナ・レンセは苦い表情になった。

「えーっと、彼は……」

 仕方なく説明しようと口を開くユナ・レンセに、顔も向けぬままにルヴィウスが冷たく言い放つ。

「座れ」

 命じられてユナ・レンセはふて腐れて、椅子を近寄せて腰掛けた。


 ユナ・レンセはルヴィウスの大事な妻を利用した。

 今もまだ、利用し続けている。

 そのことを何故ルヴィウスが責めないのか。いっそ責め、罵り、怒りを露わにしてくれれば楽なのになどと、勝手な思いが頭をよぎる。


 不満げなユナ・レンセの表情を横目で捉え、ルヴィウスが嘲笑う。

「どうした?お前の欲しい駒が自ら出向いてきてやってるというのに」

 それだけの言葉で全てを飲み込んで、グラジナがアートを見る目が変わった。

「そういうことでしたか」

 赤茶色のグラジナの目は、すでに死を見据えている。

 手駒が揃えばユナ・レンセは戦いに出向く。そうなればユナ・レンセの庇護はなくなるということだ。

「すまない。予想外に、早くなりそうだ」

 半年以内と期限を示していたが、それが今日明日にもなりそうだと告げるユナ・レンセの表情が翳ったのに気付き、グラジナは僅かに微笑んで首を緩々と左右に振る。

「覚悟はしていました。元々、この時までの仮の宿でしょう、ここも」

 凛と前を見据えるグラジナの目に、迷いはなかった。その表情にマイスが息を飲み、顔色を変える。

 何かを口にしようと思いながらも、色々な思いが交錯して何も言えず、黙り込むマイスの肩にルヴィウスがそっと触れてその耳に囁いた。

「守りたいものがあるのなら、強くなることだ」

 酷く静かなルヴィウスの声に促されるようにマイスは顔を上げ、グラジナを見つめる。けれど、彼女以上に自分が強くなれる気がせず、マイスは結局何も言えなかった。


「さてと……説明してくれるだろう?」


 グラジナとマイスの間に流れる微妙な空気を打ち破るように、アートが足を組み変えながら言う。促すように細い顎で自分を指し示してくるアートに、ユナ・レンセは表情を引き締めた。

「もう、ほとんど分かってるんじゃないか?」

「面倒くさがるな」

 割愛しようとするユナ・レンセに、ルヴィウスが鋭く突っ込む。がりがりと頭を掻いてから、ユナ・レンセは纏まらぬままに話し始めた。


「この都の下には、かつて四人の英雄が倒した巨人の王が封印されている。俺は、『星の舟』の始祖であるシャーザーンにそれを倒すように命じられた。俺が……三十二の時だ。それから俺は、ずっと、巨人を殺す方法を探し続けた」


 必要なものは三つ。

 巨人を殺す『赤剣』。

 『赤剣』を使う『月の谷』の戦士。

 そして、巨人の封印されている間を守る古代の竜たちを退けられる、アスティールの竜使い。


「レイサラス家のゼルランディアと挑んだ時には、俺は巨人の元まで辿り着けずに、古代の竜たちに道を阻まれた。だから、アスティールの皇帝家に入り、もう一度挑んだが、駄目だった」


 キエラザイト帝国の初代皇帝、アスティール・フィオ・キエラザイトは竜を自在に操る力があったという。その力は子孫に受け継がれてはいなかった。

 故に、竜を操れる人物をユナ・レンセは探した。


「それが……私?」

 はっと息を飲み、ゼルランディアが小さく呟く。

 彼女の持つ『魅了』の力こそ、ユナ・レンセが必要としたものではなかったのだろうか。

 キエラザイト帝国の皇帝の子どもを生み、正妃に入ったゼルランディアは、間違いなくアスティールの一員と認められるだろう。その上、彼女は『魅了』の力を持って竜を操ることができるかもしれない。

 腕の中で眠ってしまった赤ん坊を抱き締め、青ざめるゼルランディア。

 その隣りに座っていたルヴィウスが、何の前触れもなく立ち上がった。

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