春が来るその前に

第76話 やがて来る春  1

 南にあるとはいえ、シーマ・カーンの外れにあるアディラリアの家の周囲には、僅かに雪が降ることもある。

 秋のキエラザイト帝都大地震の王城の片付けに駆り出されていた『星の舟』の魔法使いたちも、ようやく引き上げ、一連の騒動も落ち着いた頃、その人物は唐突にやってきた。

 粉雪が降っていて、その人物の肩には白い雪が乗っている。


 肩くらいで切られた緩やかに波打つ灰色の髪を丸く纏め、簡素な薄青い長衣を着た長身のその人物は、灰色の目を細めて穏やかに微笑んだ。

 長い睫毛に縁取られた目はとても柔和で、エルグヴィドーは自分よりも長身だが優しげなその人物を凝視する。

 凝視されて恥ずかしげに目を伏せるその人物は、『月の谷』の出身者ほどではないが、薄い褐色の肌をしていた。『月の谷』の出身者でも、月の聖霊の加護の強さによって特徴が強く現れるものと弱く現れるものがいるらしいので、その人物は『月の谷』の出身者なのだろう。

「あの……初めまして」

 静かにその人物が発した声を耳にして、エルグヴィドーは思わず訝しげな表情を作ってしまった。

 低い。

 限りなく神秘的で整った顔をしているのに、その声は非常にハスキーだった。

「男性……?」

 指差して言われて、その人物はがくりと肩を落す。

「すみません、生まれながらに男です。多分、死ぬまで男です」

 情けない表情で笑うその人物は、『月の谷』の出身者にしては肩幅も狭く華奢で、細身で、長身だが非常に女性的な印象があった。いつも間違われているのであろう、怒りもせずに静かに答えた彼に、エルグヴィドーは頭を下げる。

「すまない」

「いえ、慣れています」

 言ってから、彼はエルグヴィドーに問いかけた。

「こちらに、リィザさんと仰る方はおられますか?」

 エルグヴィドーは目を瞬かせる。

 一般的には大地震と言われている帝都の地下が陥没して王城が崩れ落ちた災害で、師匠のアディラリアが行方不明になってから、塞ぎこんでいるリィザ。エルグヴィドーもとても明るい気分にはなれなかったが、怪我をしているリィザの傷の治療もしなければいけないし、毎日の食事の用意をしたり、レイサラス家を出てしまったので日々の暮らしのために働いたりしている間に、何とか最悪のことを考えずにいられた。

「リィザの、知り合いか?」

 じっと見つめるその人物は、年の頃は二十代半ばほどで、十歳のリィザの友人と思える年齢でもない。

「私の祖父が彼女にお世話になったようなので」

 彼の祖父となると何歳なのだろうと考えて、更にエルグヴィドーは疑惑の目を向けた。リィザがバッセル帝国にいた時期に出会っていたとしても、その時には彼女は八歳以下だったのだから、世話をされたことがあっても世話をしたとは思えない。

「あなたは?」

 問われて彼は慌てて姿勢を正した。


「ユナ・エルラトといいます。……名前は私には大仰過ぎるので、アルトと呼んで下さると嬉しいです」


「エルラト……!?」

 それは、大陸の古代語だった。

 大陸古代語でエルラト、南方の地方語でエル・ア・ラート、そして、現在の大陸共通語でアート。

 力アートなどという名前は、確かに大仰かもしれない。特に、こんな柔和な人物には似合わない。

「では、アルト……あなたは、何のためにここに来たんだ?」

 アディラリアがいなくなって後、誰か他人に時間を割くような気持ちにはなれず、アディラリアの庭を使って幾つか薬を栽培して売る以外、あまり人には会わずにいたエルグヴィドー。誰の記憶からも消えてしまったユナ・レンセや戻ってこないアディラリアやルヴィウスのことを、誰かの口から聞いて実感したくなかったのだ。

「あなたは、エルグヴィドーさんですね。母が、祖父からよく話を聞いていたそうです」

「私の話を?」

 バッセル帝国の関係者にならば、心当たりがないわけでもないが、『月の谷』出身者の老人に知り合いがいただろうかと考えて、はっとしてエルグヴィドーはまじまじとその青年の顔を見る。

 けれど少しも彼から面影を見出せず、首を捻るエルグヴィドーに、青年、アルトは情けない表情になった。


「名前から、察してもらえませんか?私、ユナ・レンセの孫なんです」


 言われて、どれだけアルトを見つめても、ユナ・レンセの面影はほんの少しも見出せず、エルグヴィドーは呆気に取られる。元々表情豊かではないエルグヴィドーだが、アディラリアがいなくなってからこんなに表情筋を動かしたのは初めてかもしれない。

「ユナ・レンセは、生涯婚姻を結ばなかったと、聞いているが?」

「それは、変わる前の歴史ですね」

 静かに答えるアルトに、エルグヴィドーは立ち尽くした。

「歴史が変わったことを、あなたは知っているのか?」

「はい……信じてはいませんでしたが、母が祖父から繰り返し聞いていて、私もそれを聞かされて育ちました」

 はきはきと答えるアルトに、エルグヴィドーはこの青年がこの日をずっと待っていたのだと理解する。

「中に、どうぞ」

 招かれてアルトは優雅な動作で一礼し、部屋の中に入った。リビングではリィザが花瓶の水を替えていた。リィザはアルトをちらりと見て頭を下げ、暗い表情のまま屋根裏部屋に戻ろうとする。

「待って下さい、リィザさんですね」

 素早く歩み寄られ、左手を取られてリィザは緩慢な動作でアルトを見上げた。アルトはリィザの左手の甲の紋章を見てから、にっこりと微笑む。

「初めまして、ユナ・エルラトです。……と言っても、ユナの名もエルラトの名もかなり大仰なので、アルトと人は呼びます」

「ユナ……?」

 虚ろなリィザの目が僅かに光を宿した。

「はい。ユナ・レンセの孫です」

 きっぱりと言い切るアルトに、リィザは息を飲む。

「でも、ユナ・レンセは結婚しなかったって……」

「エルグヴィドーさんと同じことを言うのですね」

 苦笑してから、アルトはエルグヴィドーとリィザを見て話し始めた。


「私の祖母は、ユナ・レンセ王が『月の谷』の王を退いた年に、血塗れで『月の谷』の外れに倒れていた祖父に出会ったと言います」


 ユナ・レンセは今から七十年以上前の人間。

 巨人が倒されて、呪いが解けた時点で、シャーザーンはその歪みを修正した。つまりは、ユナ・レンセを元の時代に再び戻したのだろうとユナ・レンセは考えていた。

 当時、まだ十歳だったアルトの祖母に見つけられ、医者を呼んでもらって傷の手当てを受け、意識を取り戻したユナ・レンセは、自分が時間を遡ってきたことに驚いた。


「じゃあ……ユナ・レンセは生きて、過去に戻った、と?」

 確認するように言われてアルトは深く頷く。

「その時点で、彼の年齢は五十一だったと思います。外見は妙に若かったようですが。それから、祖母と結婚して、七十を過ぎてから私の母が生まれて、九十四で大往生だったらしいですよ」

 にこにこと話すアルトは、祖母似の母によく似たらしい。ユナ・レンセの面影は全くなかった。

「それで、歴史が変わったのか」

 呟いてからエルグヴィドーはリィザと顔を見合わせる。

「それなら、アディラリアやルヴィウスも……」

「えぇ、祖父もその方々のことを案じていたようです。遺体は見つかっていないのでしょう?多分、いずれどこかで修正されると思います、全てが」

 アルトの微笑みに、エルグヴィドーはあの明るい親友を思い出した。

「それから、リィザさん」

 再びリィザの手を取り、アルトは深く頭を下げる。


「祖父が、責任を取れなくてすまないと、伝えて欲しいと」


 その言葉に、リィザはほぼ二ヶ月ぶりに微笑を見せた。

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