第51話 正妃と宰相 1
緩やかに波打つ長い黒髪を編まれている間中、サウス……ユナ・レンセは眠たげに目を擦っていた。日はまだ昇っておらず、東の空は薄明るい程度。夜更けから帝都の見回りに飛び回っていたユナ・レンセにしてみれば、一番眠い時刻であったが、侍女たちは容赦がない。
叩き起こされ、身支度を強要されるユナ・レンセは、せめて、「若いお嬢さんたちが、男の寝室に早朝押し入るってのは、どうかと思うけど」と唸るくらいしかできなかった。しかも、それも「正妃様が何を仰られますやら」と一蹴される。「望むところです!」とまで言われると、ユナ・レンセには何も言えなくなってしまった。
現在のキエラザイト帝国の最高権力者、アスティール・マイス・キエラザイト皇帝陛下は、今年やっと十四歳になったばかり。背丈は伸びたが、神経質で我がままで扱いにくく、宰相か正妃でなければその機嫌を直すことはできないと言われていた。
次の権力者は、政治的には宰相のディオティン・グラジナ・オーレリアであり、家系的には正妃のサウス……つまりはユナ・レンセであり、血筋的には、妾妃のゼルランディアの生んだ娘、アスティール・ミルシェ・キエラザイトであった。
グラジナは先代の皇帝が崩御した際に、共に呪いに巻き込まれて死んでしまった先の宰相の娘で、年はまだ二十一歳。
ミルシェに至ってはまだ生まれてから一月しか経っていない。
となれば、女性たちの目が向けられるのは、どうしてもユナ・レンセになってしまう。
神経質すぎて夜も眠れないようなマイスに女性陣が殺到するくらいなら、関心が自分に向かった方がいいのかもしれないと思う気持ちはあるものの、眠さには勝てず、ユナ・レンセはくっつきそうな瞼をこじ開けた。
肩を越す黒髪は何十本もの細い三つ編みにされて垂れている。目の色は漆黒、纏うシャツはかろうじて白だが、ズボンとブーツ、サーコートと皮の手袋は全て漆黒。その上、肌までもが濃い蜜を流したような艶やかな褐色となれば、鏡に映る立ち姿は人間というよりも、悪魔か魔物を思わせる色彩だった。
顔立ちも、お世辞にも好青年とは言い難い。長年言い続けている三十二歳という年齢よりは若く見えるものの、くっきりと彫りの深い顔立ちなので、美麗というよりも精悍と表現した方が正しい気がした。
けれど、早朝から現れた宰相は、目を細めて嫌味のように言う。
「おはよう御座います、今日もお美しいですね、正妃様」
くすんだ黄土色の髪に赤茶色の目の細身の彼女は、そばかすだらけでお世辞にも美しいとは言い難かった。目も細く、顔立ちは女性というよりも少年のようだ。癖のない黄土色の髪は飾り気なく背中で緩く一つに括り、男性のようなシャツとズボンの上から、床に着くほどに長い前開きの上着を着ている。
その上着の左胸には大きく三つのひし形を組み合わせたキエラザイト帝国の紋章が刺繍されていた。
「そちらこそ、化粧でもなさって、オウツクシクされたらどうカシラ?」
負けじと返すと、宰相、グラジナは細い目を線のようにしてにっこりと微笑む。
「わたくしは容姿で勝負しておりませんので、お構いなく」
落ち着いた返答に、ユナ・レンセは肩を竦めた。
グラジナが現れると、今までにこやかにさざめいていた侍女たちが一斉に押し黙り、手際よく仕事をこなすと部屋を出て行く。侍女がいなくなってから、グラジナは戸の傍に立ったまま、冷ややかな目をユナ・レンセに向けた。
「侍女と言葉を交わしてはなりませんよ。あれは使用人、空気のようになきものとして扱わねばなりません」
身分重視で、使用人を物としてしか扱わぬキエラザイト帝国に染まりきったグラジナの言葉に、ユナ・レンセは呆れ返る。
「彼女たちは人間だよ、グラジナ」
「誰もを人として扱っていては、国など支えられません」
静かに言い放つグラジナに、ユナ・レンセは緩々と首を振った。
「逆だ。誰もを人間として扱わぬ指導者には、誰も付いてこない」
「わたくしは、指導者ではありません。支配者です」
きっぱりと言うグラジナに、ユナ・レンセは沈黙する。
「驕り高ぶった支配者を、陛下には倒してもらわねばなりませんから」
誇るように自分の死を予告するグラジナ。
彼女は五年前、十六で宰相の地位に付いた時から、マイスが成人した暁には帝国が纏まった状態で渡せるように、そして、マイスの地位がしっかりと確立されているように……それだけを目指してどんなことでもやってきた。
厳しい政策も取ったし、他の貴族を蔑ろにもした。『星の舟』を主体とした魔団法すら無視したことがある。それどころか、マイスを守るために魔法使いたちを規則無視で集め、後宮に送り込んだことも少なくはない。
そのために、グラジナ自身はいつ誰から刺されても不思議ではない状態で日々を過ごしていた。
事実、彼女の暗殺計画は、キエラザイト帝国国内でも幾つも企てられている。
「俺がいなかったら、君は今まで生きてないよね」
ユナ・レンセの言葉に、グラジナは当然のように頷いた。
「あなたがいなくなれば、わたくしを殺したい連中は小躍りするのでしょうね。それで、いつ頃、いなくなる御予定です?」
甘さの全くない彼女の声は、落ち着いて平坦で、性別を感じさせない。十六で父親が死んだ日から、女であることを捨てたという彼女の決意が口調からも伺えて、ユナ・レンセはその姿を痛々しく見つめる。
「ヤンが君に求婚したと聞いたけれど?」
魔法騎士団と並び、兵士たちを率いる騎士団の団長、ヤン・ミランの名前を持ち出すと、グラジナは思わず吹き出した。声を上げて笑う彼女に、ユナ・レンセは目を丸くする。
「騎士団長様がわたくしに何を仰ったか、ご存知ですか?『あなたに女性としての幸せを与えたい』ですよ。そんな可愛らしい女性に見えたのでしょうか、わたくしが」
ヤン・ミランと会う前の会議で、マイスを殺す命を受けた魔法使いを、拷問にかけて全てを喋らせた挙句に、処刑しろと彼女が命じたことを知っていたユナ・レンセは笑うに笑えなかった。
「近いうちに……半年以内に、俺はいなくなるよ」
「では、わたくしの命の期限も、それだけということですね」
酷く静かに呟くグラジナに、ユナ・レンセは目を伏せる。
「それまで、全ての汚名を被って差し上げますよ。わたくしを助けて下さったあなたへの恩返しに」
微笑む彼女に、ユナ・レンセは眉を顰めた。
グラジナはマイスが生まれた時からの婚約者だった。
けれど、グラジナは十四歳の時に病気をして子どもを産めない体になってしまったので、婚約者から降ろされ、宰相としてマイスを支えるように教育され始めたのだと聞く。
「死ぬのが、怖くないのか?」
問われてグラジナは緩々と首を左右に振った。
「怖いです。けれど、わたくしは、十四の時に一度死んだようなものですから」
マイスが生まれた時から七年間、幼いマイスを弟のように可愛がり、その隣に立つことを願っていたグラジナが、どれほどにマイスを想っていたのか、ユナ・レンセにも想像できない。
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