第52話 正妃と宰相  2

 ゼルランディアは、アスティール・マイス・キエラザイト皇帝陛下の十二人目の妾妃であり、唯一の娘の生みの親でもあった。

 ただし、ゼルランディアを見た他の全ての妾妃は、初対面から呆気に取られっぱなしだった。

 肩の上で切られた黒髪に黒い目の平凡な顔立ち、着るものといえばノースリーブの襟高のシャツの上にカーディガン。ハーフパンツにサンダル履きという出で立ちの彼女は、豪奢に着飾った他の妾妃と全く印象が違った。

 陰謀の渦巻く後宮で、他の妾妃の体調が悪いと聞けば薬を持って訪ねて行き、後宮内の庭という庭を全て薬草畑に変え、初めて来た時と全く変わらぬ田舎の少年のような格好で、麦藁帽子を被って庭仕事をする彼女に、最早、使用人ですらも開いた口が塞がらない様子だった。

 ゼルランディアが来た当初は十二歳だったマイスも、あまりのことに呆気に取られてコメントができず、その隣りでユナ・レンセは大笑いしていた。


「それにしても、十四歳の少年との間に子どもを作っちゃうなんて、とても犯罪っぽくないですか、私?」

 後宮に来て二年経っても全く最初と変わらぬ格好のゼルランディアに、ユナ・レンセは微笑みかける。長身のユナ・レンセと小柄なゼルランディアとでは、背丈に三十センチ以上差があった。

「俺に脅されたからって言えば、ルヴィウスも許してくれるって」

 ルヴィウスの名前を出すと、ゼルランディアの眉間にくっきりと皺が寄る。

 ゼルランディアが二年前から肌身離さず身に着けている、青い石のついた首輪のようなデザインの皮のチョーカー。それは確か、ルヴィウスが贈ったものだったとユナ・レンセは記憶していた。


 その青は、ルヴィウスの目の色。


 輝くような鮮やかな青色の瞳を持つルヴィウスは、その色を厭って普段は自分の目の色が黒く見えるように魔法をかけていた。けれど時折垣間見せるその鮮烈な青色は、ユナ・レンセの脳に刻み込まれている。

「ルヴィウスには、殺されそうな理由が色々あるからなぁ……」


 加担させた『月の谷』の王政廃止のための自殺劇。

 死なせてしまった赤毛の魔女。

 『星の舟』での数年間。

 そして、ルヴィウスの最愛の妻であるゼルランディアを、彼の死後とはいえ、キエラザイト帝国の後宮に連れて来たこと。


「必要だったと……そう言えばいいんですよ。どうせ私はお人好しで断われないんです」

 ゼルランディアが後宮に来た日に、ユナ・レンセは自らの企みを彼女に打ち明けていた。


――子どもが、必要なんだ。


 魔獣ルインの追跡を一切やめることを条件に、ゼルランディアはその頼みを承諾した。

「あなたが本当に欲しかったのは、ルヴィウスだったんでしょう?」

 その問いかけに、ユナ・レンセは失った友人を思って悲しく微笑むしかない。

「ミルシェは?」

 話題を変えるユナ・レンセに、ゼルランディアは「さぁ?」と首を傾げた。

 生後一ヶ月にしかならないゼルランディアの娘、ミルシェは、今、彼女と共にはいない。それどころか、子どもを産んで一月しか経たないというのに、彼女は一人で後宮を抜け出して魔法騎士団の団長室まで来ていた。

 普通の騎士団と違い、書類棚だけでなく薬品棚が立ち並ぶこの部屋は、美しく整えられた妾妃の部屋よりもゼルランディアにとっては落ち着く場所には違いない。けれど、寵愛を受けているとはいえ、彼女は妾妃。皇帝の所有物なのである。勝手に出歩くことが許されるわけがなかった。

 ガラス張りのテーブルを挟む大きなソファに向かい合って座る、ゼルランディアとユナ・レンセ。

 漆黒のサーコートを纏った魔法騎士団団長に対して、ゼルランディアは相変わらず田舎の少年のような格好だった。

「乳母に預けたら、あっちに注意が集中して、助かりました」

 そんなことを言って笑う彼女の表情は、どこか虚ろだ。

 夫を失って五年間、ゼルランディアの身に起こったことを考えれば、そうならざるを得ないだけの理由はある。鈍感にならなければ、とても今まで生きて来れなかった。

 全てを諦めた生ける死者のようなそんな目を見たくなくて、ユナ・レンセは顔を背ける。

 ルヴィウスが今、生きていれば、ユナ・レンセを指を差して笑うだろう。


――お前のやったことの結果が、これだ。

――お前が切り捨ててきたものを、目を開いてよく見ろ。


 ルヴィウスの声が聞こえたような気がして、ユナ・レンセはちらりとゼルランディアのチョーカーの青い石に視線を投げた。

 細い首と手足……子どものような体付きのゼルランディアが、ルヴィウスの実質的な妻だったのかどうか、ユナ・レンセにも分からない。

 ルヴィウスは大事なものは本当に繊細に愛しむ性格だから、もしかすると指一本触れていない可能性もあった。そんなゼルランディアが、身篭るまでの短い期間とはいえ、マイスに身を任せたこと。それはどれ程の苦痛だっただろう。

「すまない……」

 俯くユナ・レンセの頬に、細かく編まれた幾房もの三つ編みが零れ落ちてきた。それをゼルランディアは静かな目で見ている。

「ルヴィウスは、知っていたんですか?」

 問いかけられて、ユナ・レンセは質問の意図を読み取り、小さく頷いた。


 ゼルランディアには、生まれながらに持っている能力があった。

 それは、ティーの先見や、エルグヴィドーの魔法の無効化、アートの魔術酔いと同じ、体質的なもので、ゼルランディア自身もその能力には全く気付いていなかった。

 それに気付いたユナ・レンセは、グラジナに手を回してでも、ゼルランディアを手に入れざるを得なくなってしまった。


 その能力とは、『魅了』。


 ほんの子どもの頃にゼルランディアを見出したルヴィウスは、その能力に気付いていた。その上で、その能力を持ったままでは彼女は幸福には生きられないと思い、それを封じた。

 封じても僅かに染み出るその能力ゆえに、ゼルランディアは誰からも本当に憎まれ嫌われることはなかった。陰謀渦巻く後宮ですらも、彼女の存在は受け入れられている。

 その能力を完全に開放すればどうなるのかは分からないが、ユナ・レンセにはゼルランディアのその能力が、巨人の王を封じる古代の竜たちにも通用すると確信していた。


「ルヴィウスも……」

 この能力に捕らわれたのかと続けようとして、それに頷かれたら立ち直れなくなると、言葉を切ったゼルランディアに、ユナ・レンセは慌てて否定する。

「違う。それだけは、絶対、違うからな。むしろ、君の方が魅入られたんだと思う」

 言われてゼルランディアはきょとんと目を丸くした。その様子に、ユナ・レンセは言ってはいけないことを口にしてしまったかもしれないと青ざめるが、もう遅かった。

 素早くガラスのテーブルに片膝を乗り上げ、ゼルランディアはユナ・レンセに詰め寄る。

「どういう、意味ですか?」

「いや……その……」

「説明して下さい!」

 サーコートの胸倉を掴みかねないゼルランディアに、ユナ・レンセはおろおろとして後ずさった。

 姉と妹に挟まれて育ったユナ・レンセは女性に弱い。それなのに、仕組んだように彼の周囲には女性しかいなかった。

「ルヴィウスも……同じ能力の持ち主だから……お互いに打ち消しあって、効力はない……はず……」

「なんですって!?」

 ぴしりと歪むゼルランディアの顔に、ユナ・レンセは戦慄する。

 戦場で剣を交えることに恐怖を覚えたことは全くないが、女性の機嫌を損ねることには激しく恐怖を覚えるユナ・レンセ。

「まぁ、それはいいとしても、ルヴィウスは私じゃなくて、他のゼルランディアを愛していたんでしょう?」

 拗ねる素振りを見せたゼルランディアに、ユナ・レンセは目を剥いた。

「それは、絶対にありえない」

 断言するユナ・レンセをゼルランディアは横目で睨む。いつになく強気な彼女に、ユナ・レンセは細かく首を左右に振って降参の意を示した。

「ゼルランディアって、ルヴィウスの師匠の、あの赤毛の、だろう。絶対に、彼女がルヴィウスと恋仲だったなんて、ありえない」

 確かに、口うるさい師匠とルヴィウスは気は合ったようだが、そこに恋愛感情があったとはユナ・レンセにはとても思えない。

 それよりは、ルヴィウスの師匠の姉、ケイラと関係があった方が納得できるが、ケイラはケイラで、非常に気難しく妹だけを偏愛していたので、その可能性も極めて低い。

 何よりも、ルヴィウスが本気になれば落せない相手など、魔法の無効化の能力を持つエルグヴィドーくらいだろう。

「でも……ルヴィウスの顔を……」

 ゼルランディアが言うまでもなく、ルヴィウスの顔半分を醜く崩れ落ちさせたのは、確かに師匠だったが、それもまた、嫉妬のためなどではなく、単純に、『魅了』の能力を持ってしまった弟子の行く末を案じてのことだったとしか思えない。


 そうでなければ、彼女はユナ・レンセの……死神の手など取りはしなかったのだから。

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