第14話 六番目の魔獣 2
ひょろ長い腕がシーツの隙間から伸びる。大きな手がシーツの端を引っ張り、目つきの悪い顔と裸の上半身がシーツの下から出てきた。
背中まで伸びた真っ直ぐな灰色の髪をかき上げ、男は狭い寝台から転がるようにして降りて窓際に向かう。明らかに日に当たったことのない真っ白な肌と、血の気の失せた薄い唇、ぱさぱさとした灰色の髪に、険のある目つき。
カーテンを乱暴に開けて窓の外を見ると、その眩さに男は目を覆う。
遠くの地平線から太陽が姿を現していた。
下半身に巻いたシーツを押さえながら、男は幾度も目を瞬かせて目が光りに慣れるのを待つ。
鳥の声、草の葉が擦れ合う音、風が庭の木々を揺らす音、庭で水を撒く音……。視界を塞ぐと世界は無遠慮なほどに騒がしい。
目が慣れてから庭を見下ろすと、皺くちゃの老人がこれでもかというほどに目を見開いて男を見ていた。
年の頃は二十代後半くらいの男が、上半身裸で腰にシーツを巻いただけの格好で窓辺に突っ立っているのだ。しかも、その上背は二メートルに近い。
「ぜ、ゼラ先生!?」
あまりのことに声を上げた老人に、男は眉間に皺を寄せた。
ばたばたと階下で足音が響き、黒髪の細身の少年……のような女、ゼラが庭に面した窓からサンダルを引っ掛けて走り出るのに、老人は指で二階の窓を指し示す。
ゼラは見上げて目を丸くし、ややあって、手を打った。
「あ……あー!」
「『あー』じゃねぇよ」
不愉快な音声に顔を顰めて吐き捨て、窓際から離れる男に、ゼラが慌てる。
「ま、待って……えっと、彼は私の……えーと夫の親戚で、しばらく……昨日からなんですけど、手伝いに来てくれて……たりして」
つっかえながら説明されて老人は如雨露を持ったまま、訝しくゼラを見つめた。
「裸で、かい?」
「は、裸で寝る主義みたいですよ!」
苦しい言いわけをしている途中に、はたと気付きゼラは愕然とする。
「裸で……あー!服がない!」
呪詛がある程度抜ければ変貌が消え、人間の形に戻ると分かっていたが、身長がそのままとは思わず、十六~七の少年ならばルヴィウスの物で充分だろうと踏んでいたゼラ。しかし、あのひょろりとした長身の男に、中背で細身だったルヴィウスの服が着れるとは思えない。
「ゼラ先生?」
大丈夫かと心配そうに顔を覗き込まれて、ゼラは勢いよく頷いて窓に向かって走り出した。
「すみません、今日は水遣り終わったら帰っていいですから!」
動揺してサンダルを足に引っ掛けて転びかけ、窓の桟で膝を打ちながら、よろよろと家の中に入っていくゼラを、老人は呆然と見送る。
階段を駆け上がり、廊下の角を曲がったところで、ゼラは立ち尽くした。
右側の扉が開き、そこからシーツを腰に巻きつけただけの男が現れる。その身長は小柄なゼラの首が痛くなるほどに高く、その肌はシーツに溶けるほど白い。
全く濃淡がない彼の肌の色に、ゼラは眉根を寄せた。
まるで、一度も日を浴びたことがないような、異様なほどの白。
「体が痛んだり、していませんか?まさか、一晩でこんな……」
「戦闘態勢に入る必要がないから、戻ってるだけだ」
素っ気無く言う男の声は、掠れて低い。ぺたぺたとこちらに近付いてくる男に、ゼラはじりじりと後ずさった。
「どこに、行くつもりなんですか?」
「さぁ……。ここにいるのもまずいだろう?それとも、あんたが俺を飼ってくれるのか?」
さらりと男の口から出た言葉に、ゼラは顔を歪める。
「か、飼うって……動物じゃないんですから」
ゼラの言葉に、男は軽く肩を竦めた。
「魔法使いウィザードにとって、人間ヒューってのは、その程度のもんなんだろ?」
その言葉に、ゼラはイージャを重ねる。立場は逆だったが、彼女も同じことを言っていた。
「いいえ、同じ人間ヒューマンです」
イージャの時と同じ答えを男に突きつけると、彼は額に手をやり少し笑う。その笑いの暗さにゼラはぞっとした。
「同じ人間だから、信じて良いですよってか?何を信じろと?信じれば立派な魔獣にしてくれるってのか?」
高らかに笑い出す男に、ゼラは思わず駆け寄る。顔を隠す手を引っぺがし、目を見ようとした瞬間に、ゼラはそのひょろ長い腕の中に囚われていた。
「何を……!?離しなさい!」
自分よりもずっと白い平坦な胸を押し、逃れようと暴れるゼラをますます強く抱き込んで、男はゼラの肩口に顔を埋める。鼻先で揺れるゼラのイヤリングを、男は口に咥えてもぎ取り、もう片方のイヤリングも回した手で掠め取り、遠くへ投げ捨てる男。
「私はあなたに危害を加える気はありません!」
宣言しても男が手を緩めることはなく、攻撃手段も失ってゼラは魔法で彼を退けるべきか、もう少し様子を見るべきか迷った。魔法が発動すれば、男はまた魔獣へと変貌を遂げるのだろう。
ばさり、とシーツが床に落ちる音に、ゼラは身を硬くした。
「なんの匂いだ?甘い……」
下を見てはいけないと、必死に視線を天井に投げたゼラの耳元に、男が囁きかけてくる。
甘い匂いのするものなど身に着けていないと弁解しようとしたゼラだが、一つ、心当たりを見つけて絶句した。
アディから受け取った媚薬。
一度しかつけていないが、アディほどの魔法使いが作ったものならば、効果が長く続いてもおかしくはない。
「あ、あなたは、きっと、薬で感覚がおかしくなってるんだと思います。ほ、ほら、私なんて、顔は地味だし、幼児体形だし、背は低いし……」
慌てふためいて説明するゼラの胸を、男は遠慮なく撫でさすって確かめた。
「確かに、小さい」
「うわー!なんか、はっきり言われるとショックですよー!?」
自分で言っておきながら激しくショックを受け動揺するゼラに、男は興が削がれたようで、ゼラの肩を軽く突いて後ろに押しやる。飛び退ったゼラは小さな拳を握り締めて、全く似合わないファイティングポーズをとった。
男はもうゼラから興味を失ったようで、シーツの上に座り込む。
「あ、あの、少しは隠すとか、して下さいよ?」
顔を真っ赤にして言うゼラに、男は感情を宿さない目を向け、首を傾げた。
「何故?」
「えーと、色々と問題がですね……服を用意してなかった私が悪いんですけど……」
説明しながら、ゼラは奇妙なことに気付く。
男はどうやら、服の必要性を理解していないようだった。
「あなた……幾つなんですか?それに、名前……あ、私は……」
「ゼルランディア、だろう。一度聞いたら分かる。俺は……魔獣、と呼ばれていた。年は……八つの冬に買われて、確か、それから、六回冬が来た気がする……」
男の説明に、ゼラは絶句する。
八歳の冬に買われて、それから六回冬が来た……。
つまり、十五歳……もしくは、十四歳。
「お、親に、呼ばれていた名前とか、ないんですか?」
『魔獣』と彼を呼んでいたのは恐らく、彼に呪詛を刻んだ魔法使いなのだろう。それならば正式な名前があるはずだと問いかけたゼラだが、『買われた』という言葉にはっとする。それならば、彼の両親は彼を『売った』のだ。
「六番目ルイン……と呼ばれてた気がする」
――一番目イー、二番目ジー、三番目ティエン、四番目セェト、五番目クラー、六番目ルイン、それから先は皆同じセペタ、山の麓に捨てられる。
――六番目ルインは橋の下、五番目クラーは人買いに、 四番目セェトは獣に食われ、三番目ティエンは逃げ出した、二番目ジーは病気になって、一番目イーは弟妹思い泣いている。
ルヴィウスがかつて聞かせてくれた、バッセル帝国の東、アルセス領のわらべ歌を思い出し、ゼラはぞっとした。
昔の農奴の暮らしをリアルに表現した歌だと評するルヴィウスの目が、少しも笑っていなかったことを、ゼラは思いだす。
六番目ルイン。
それは、ルヴィウスが嫌い、決して名乗ることのなかった彼の親からつけられた名前だった。
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