第56話 失われた記録 序

 無感情な緑の目がこちらを見る。サウスと名乗ってユナ・レンセが『星の舟』に入学してから、一般過程を終えて寮を出るまでずっと、エルグヴィドーは彼と同室だった。いつも身奇麗で部屋も整頓しているエルグヴィドーは、部屋の真ん中に壁があるかのように、ユナ・レンセの存在に対して強い興味を見せない。時々視線を投げてきたりするが、それは移動可能な障害物がどこにあるかを確認する程度のことでしかなかった。

 なので、話しかけるのはいつも、ユナ・レンセから。

「エルグ、その紅いの……」

 シャツを着替えていたエルグヴィドーにカマをかけると、彼は不思議そうにユナ・レンセをちらりと見て、着かけていたシャツを肩から下ろし、白い肌を見せる。

「血でもついていたか?」

 真面目なエルグヴィドーは早朝に訓練場で剣の練習をしているらしい。だから、体に傷があっても不思議ではないのだろう。

「いや……キスマークでもないかなと思って、カマかけてみた」

「無意味なことを」

 さらりと言い捨てて、エルグヴィドーはシャツの前を合わせ、ボタンを留めていった。

 その動作を見て、ユナ・レンセは外れだと思う。


 バッセル帝国の紋章は、剣を十字のように簡略化したもの。

 『赤剣』の継承者は、その紋章を真紅に染めたような形が、体のどこかに浮かび上がる。


 もしも、そんなものを体に付けていれば、人前でエルグヴィドーのように肌を晒したりしないし、カマをかけられれば反射的に隠してしまうだろう。

 レイサラス家に『赤剣』の継承者が多いと聞いたが、これは外れだとユナ・レンセは思った。

 落胆すると同時に、彼でなくてよかったとユナ・レンセは安堵する。

 自分が彼を追い詰める死神にならずに済んだことが嬉しいなどという、人間のような感情がまだ残っていたのかと、ユナ・レンセは胸中で自嘲した。

 目を閉じるたびに瞼の裏側に鮮明に映るのは、堕ちる『星の舟』、立ち上がる巨人の王、崩れ落ちるキエラザイトの帝都、そして、死んでいくたくさんの人達……。

 痛みや苦しみに顔を歪めながら、死者たちは皆、ユナ・レンセを指差して呪いの言葉を吐く。


――お前のせいだ。

――ユナの名を持ちながら。

――お前の腕は何のためにある?


「サウス?」

 酷く静かな声で名を呼ばれ、ユナ・レンセは息を飲み、そちらに目をやった。平静な緑の目がユナ・レンセを映している。

「あれ?エルってば、本当にキスマーク」

 一転して笑顔を作り、茶化すように首筋を指差すと、エルグヴィドーは緩慢な動作で首に手をやった。黄緑にも見える不思議な色の金髪は短く切られていて、エルグヴィドーの首はシャツの襟からよく見える。

 その左側にぽつんと、紅い色。

 鬱血したような痕は、確かにキスマークに見えた。

「あ……」

 指先でその痕を撫でていたエルグヴィドーが、はっと息を飲み、俯く。その顔がほんのりと赤くなっていることに、ユナ・レンセは仰天した。

 感情が乏しいわけではないが、エルグヴィドーはあまり周囲に興味を抱かない性質のようで、その感情表現は非常に薄い。僅かに微笑むことはあるが、声を上げて笑ったところなど見たことがないし、怒りはするものの、それが長時間持続したり理不尽な方向に向いたりすることもない。困惑しているところや、悩んでいるところはよく見かけるが、動じるところなど、ユナ・レンセは見たことがなかった。

「なんでもない」

 きゅっと口元を引き締めて、エルグヴィドーはすぐに普段の顔に戻る。けれど、その僅かな時間だけで、その痕をつけた相手にユナ・レンセは気付いた。


 アートとアディラリア。


 レイサラス家の双子の末っ子たち。アディラリアはおっとりとしていてそんな悪戯をする娘ではないが、アートならばそれぐらいのことはしてのけるだろう。

 彼らの体には紅い紋章があるのだろうか。

 それを見つけ出せば、この同室の友人と争わねばならなくなることは必至で、ユナ・レンセは再び陰鬱な気分になった。

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