第57話 失われた記録 1

 バッセル帝国を守る魔法使い集団として、レイサラス家の当主は特別に翼を持つ蛇の紋章を与えられる。翼の付いた蛇の紋章が壁の所々に刻印されているレイサラス家の屋敷は、石造りの重厚な建物で、天井が高く、扉が大きく、廊下は窓に添ってあった。

 どれだけ光が差し込もうともエルグヴィドーはこの屋敷に戻ると圧迫感を感じずにはいられない。

 特に、余り手のつけられていない当主室の奥の倉庫にある古い文献をあさるとなると、どんよりと暗い気分になった。

 アディラリアがいた頃は、この屋敷も明るかったとエルグヴィドーは思う。泣き虫で少しぼんやりしているアディラリアは、エルグヴィドーを見てよく笑った。素直に甘えてきてくれた。

「何をしておいでかい?」

 問いかけられて、エルグヴィドーは文献から目を離さず、振り向きもせずに答える。

「『赤剣』の継承者について調べている」

「そうか……私の可愛いゼルランディアについて、かい」

 呟きゆっくりと歩いてくるのは、腰が曲がり、目のほとんどが皺に隠された白髪の老婆。鷲の彫られた杖に体重を預けながら、エルグヴィドーに近付いてきたのは、ケイラに違いなかった。

 レイサラス家の元当主で、赤ん坊だったエルグヴィドーを迎えに来たのは、しきたり通り、ケイラだったらしい。

「そういえば、あんたは、ゼルランディアとあたしの写真も見たことがなかったんだっけ?」

 片足を引き摺るようにして埃被った本棚に近付き、迷うことなくケイラは一冊の分厚い本を引きずり出す。手渡されて、後ろからページを捲ったエルグヴィドーは、その本の半分近くが白紙であることに気付いた。

 そして、一番最初に行き着いたのは、アディラリアの写真が載っているページ。それと見開きになっている次のページがエルグヴィドーと彼の翼竜の写真が載せられたページだった。

 そのページを捲ると、赤毛でそばかすの散った少女が微笑んでいる写真と、それと見開きになっている反対のページに漆黒の髪に紫の目の挑むように睨みつけてくる青年の写真があった。

 その青年の顔に見覚えがあって、エルグヴィドーは眉を顰める。


 癖のない真っ直ぐな漆黒の髪、優美に弧を描く眉毛、気の強そうな吊り上がった目、すっと通った鼻梁、真一文字に引き結ばれた唇。


「これは、どういうことだ?」

「見たままさ。さて、ゼルランディアのことだろう?ほら、ご覧よ。ここにバッセルの紋章がある」

 言われて驚きを隠せぬままに赤毛の方に視線を動かすと、ゼルランディアという名前の横に赤く塗られたバッセル帝国の紋章があった。それを確認して、エルグヴィドーはページをどんどん遡る。五~六ページ置きくらいに、その紋章が描かれた魔法使いがいた。

「レイサラス家は、『赤剣』の継承者を育てるための家だった、ってことか?」

 問いかけるとケイラは苦笑して首を振る。

「そうじゃないさ。皇帝陛下の親類に魔法使いが出れば、『赤剣』はそこに預けられるが、出ない時もある。その時の保険なのさ、ここはね」

 今、『赤剣』を継承しているのが、バッセル帝国皇帝の親類であるウェディーだということに思い至って、エルグヴィドーは小さく頷いた。

「それにしても、今更、かい?もっと早くに興味を持つものだと思ってたけど」

 くくっと喉の奥で笑うケイラの真意が読み取れず、エルグヴィドーは眉根を寄せた。



 所変わって、帝都の呪詛研究所近くにあるレンガ造りの二階建ての家。

 その主、イージャは乱暴に叩かれる扉の音に、不機嫌面で階段を降り、玄関に向かう。時刻は昼前だが、イージャは今日は仕事もなく、昨夜は研究所の同僚と遅くまで酒を飲んで過ごした。

「誰?」

 苛立ちを隠すことなく言いながら、イージャはドアノブに手をかける。

 研究所近くには魔法使いが多いので、イージャは自分が魔法使いであることを隠してはいない。魔法使いは強く異端なもの。こんな風に無礼な客など、至極珍しかった。

 扉を開けた瞬間に、イージャは悲鳴を飲み込む。

 そこにいたのは、漆黒の真っ直ぐな髪を背に流し、紫色の目を細めた青年。

 袖なしでやたらと丈が長く両脇にスリットの入ったシャツと、黒革の細身のズボンという出で立ちの彼は、ぞっとするような迫力を持っていた。シャツ自体、黒い革のベルトがたくさん付いた拘束具のような雰囲気で、首にも手首にも幾重にも連なる細い鎖の輪をつけているその姿は、人間に捕らわれた漆黒の豹を思わせる。

 見つめる顔には浮き上がる青い呪詛。それが整った顔立ちを一層引き立てる。


「アート!?」


 怯んで逃げそうになるイージャの手首を、アートは無造作に掴んだ。その手の平の冷たさに、イージャは驚き、目を見開く。

「久しぶりだけど……相変わらず、ドブ臭い呪詛の移り香なんか、纏わせて……」

 呟きながらアートが片手をイージャの肩から腕まで、ゆっくりと滑らせていくと、日常的に纏っていたので気付きもしなかった膜のようなものが剥がれていき、イージャは体が軽くなったような気がした。

「あなた……呪詛が払えたの?」

 イージャの問いかけに、アートは鼻の頭に皺を寄せて凶悪な顔で微笑む。

「この程度、誰だってできる。それに、俺には今、スバラシイ御方がついてるんだよ」

 言いながら親指で自分の背中の向こう側を指すアート。その指の先を追って、イージャはようやく彼の後ろの人物に気付いた。

 アートが……『星の舟』で悪名を轟かせていたアートが目の前にいる。それだけで警戒してその後ろに気を配る余裕などなかったのだ。しかし、その後ろにいたのは更に危険な人物で、イージャは顔を顰める。

 真っ直ぐな灰色の髪を一つに束ねた灰色の目の長身の青年……手足が長く人間としてのフォルムぎりぎりの体形のその生き物について、イージャは嫌な思い出があった。

「お元気のようね、ルイン?」

「私を忘れたか、イージャ」

 かつて魔物と蔑んだ青年の喉から漏れてきたのは、イージャの記憶にある声ではない。掠れたような低い声は、確かに聞き覚えがあった。その声の主とその生き物との関連性が見出せず、イージャは穴が空くほど彼を見つめる。

「ツァオラをどんな風に殺した?彼女は命尽きる瞬間に、どんな声を上げた?」

 僅かに嘲笑すら混じっていそうな囁きに、イージャは思わず片手を振り上げた。けれど、アートに阻まれてその手は灰色の髪の青年に到達しない。

「ちゃんと、最初に腕を折ったか?教えた通りに、魔法陣を描く手を封じ、次に喉を潰したか?目標ターゲットを定める目を抉ったか?魔法使いとしての矜持を粉々にしてやったか?」

「あ……あなたよ、名乗りをあげれば魔法使いは、殺しあうしかないと教えたのは!」

 叫んでしまってから、イージャは自分が目の前の青年が、かつて『星の舟』で教えを受けた教官だと認めている事実に気付いた。

「ルヴィウス……あんた、本当に性格悪ぃな。リィザが怯えるからやめてくれ」

 無造作にアートが手を伸ばし、灰色の髪の青年の頭を叩く。そして、その青年の後ろで萎縮している少女を引きずり出した。

「ちょっと、あんたのところの設備を貸して欲しいんだよ。大丈夫、拒否権はないから」

 にっこりと微笑むアートはルヴィウスに負けず劣らず、性質が悪い。

 軽々とリィザを縦抱きにして、当然のように家の中に入っていくアートに、ルヴィウスも黙って付いていく。

「ま、待って?何?なんなのよ?」

 一瞬呆然としていたイージャが慌てて後を追っても、もう遅く、三人の招かれざる客はすでに家の中に上がりこんでいた。

「通信具が置けるところがいいよな。リィザ、使い方はあのおばさんに教えてもらいな」

「お、おばっ……!?」

 女性にとっては絶対的な禁句とも言える呼称を口にされて、イージャは目を剥く。

「よろしくおねがいします」

 それでも、焦げ茶色の髪の地味な顔立ちの少女に頭を下げられると、嫌とも言えず、イージャは顔を引きつらせた。

「イージャよ。そう呼んで」

「リィザです」

 不安そうに視線をさ迷わせるこの少女が、一番まともな神経の持ち主だということに気付き、イージャは少しだけ安心する。アートにルヴィウス……この最悪のコンビは、逆らうだけ無駄なので、もう文句も出てこなかった。

「俺が出てる間に、リィザに何かしやがったら、八つ裂きにしてやるからな?」

 アートの笑顔は本気の迫力を湛えている。

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