第58話 失われた記録 2
『月の谷』にはかつて、一人の王がいた。
彼は大陸全土に散っていく『月の谷』の兵士たちを惜しみ、自らの国で兵士を集めて戦うことを考えた。
兵士とは戦いに命を懸けるもの。勝利を尊び、敗北をその身をもって受けるもの。
大陸に散り散りになった『月の谷』の兵士が戻ってくることはごく稀で、そのほとんどは仕官した先の国で戦い、死に至る。
そんな兵士たちを皆、『月の谷』に還すために、大陸の全土を『月の谷』としようと、その王は行った。
王の息子たちは兵士を率いて『月の谷』の北西にあるバッセル帝国、北東にあるキエラザイト帝国に戦いを挑んだ。
『月の谷』の兵士は、他の国の兵士の五人分戦えた。けれど、『月の谷』には魔法使いがいなかった。他の国の魔法使いたちは全力を尽くして兵士と共に応戦した。
次々と死んでいく息子たち。
王は後宮に大量の妓おんなを入れ、次々と兵士を率いるべき指導者を作り出した。けれど、人口も少なく領土も狭い『月の谷』に勝ち目はなかった。
屍が国境の町を埋め尽くし、腐肉を喰らう蛆虫や獣が大発生し、人が人らしく生きることなどできなくなった頃、唐突に、戦争が終わった。
王が病に倒れ、崩御したのだ。
王位を継いだのは、それまでの戦いで物凄い功績を挙げた王の息子だった。
彼は王位に付いた後に、姉をバッセル帝国に、妹をキエラザイト帝国に嫁がせ、二国との友好を図り、非常に穏やかな政治を始める。
即位から二十二年後に自ら命を断ったその王は、死ぬまで自分が殺した他国の兵士たちを思い、喪に服し、生成り地の神官衣しか纏わず髪も切らなかったという。
『月の谷』の未来を憂い、王政を廃止するよう遺言した、『月の谷』の最後の王。
生成り地の神官衣の長い裾を翻し、ユナ・レンセはキエラザイト帝国帝都を歩いていた。
街角では少年少女が冬の歌を歌っている。その頬や鼻先の赤さを微笑ましく思いながら、ユナ・レンセは彼らの前に置かれた革の小さなトランクに幾枚かの銅貨を投げ入れた。
街行く人々はユナ・レンセを見るとぎょっとして身を引く。それは彼が正妃だからではなく、純粋に彼の上背が高く、がっしりとしていて、褐色の肌に黒髪という『月の谷』の風貌を強く持っているからだろう。
魔法使いと同様に、『月の谷』の出身者もまた、故郷以外の場所では異端だった。
剣も持たず、神官衣のユナ・レンセは人々には特に異様に映るだろう。
「怒ってるかな……怒ってるよな……マイス坊や」
街を警備する兵士に聞かれたら、即刻不敬罪で連れて行かれそうなことを呟きつつも、ユナ・レンセは立襟の神官衣の中に落としている革紐の先をちらりと覗き込んだ。下に着ているシャツの胸の辺りで、涙型にカットされた透明な石が、応答を待つように光を放っている。 すぱっと言い切ると一瞬だけ透明な石が光るのを止め、すぐに新しく光りだした。
「これは、マイス坊や付きの魔法使いだな。パス!」
顔を歪めながら呟くユナ・レンセの表情に応じて、再び石は光るのをやめるが、すぐにまた光りだす。
「アタシって人気者なのね……って、この色は、間違いなくアートだろう……怖いなぁ……」
淡く紫に光りだした石を恐る恐るつまみ出し、ユナ・レンセは手の上に乗せた。こそこそと建物の影に入ってしばらくそれを観察した後、目を瞑ってそっと石を神官衣の中に落す。
「見なかった。俺は何も見なかった。気付かなかったんだ」
自分を納得させるように呟き、歩き出すユナ・レンセの神官衣の中で、石は光の色を深い緑に変えた。
「……ゼラ?」
気付いてしまってから、細かく頭を振り、ユナ・レンセは大股で歩き出す。
「何も知らない。俺は、何も知らないよー。シラナイヨー」
自分をごまかしながらもちらちらと神官衣の中を気にするユナ・レンセの姿に、黙ってはいられず、ヤンは声をかけた。
「大将、アンタ、やたらと挙動不審だよ?」
「誰が大将だ、誰が」
肩越しに振り返られて、ヤンは自分が尾行していたことを、この男は最初から気付いていたのだと悟る。
振り向いた後に足元に小さな揺れを感じ、ユナ・レンセは視線だけでヤンに問いかけた。ヤンは眉間に皺を寄せる。
「揺れたなぁ」
「最近多い……」
ユナ・レンセの表情が硬くなったのに気付いて、ヤンは茶化そうと彼に歩み寄った。背丈もユナ・レンセより高く、質量でも勝っているヤンが近付くのに、ユナ・レンセは露骨に嫌なかおをする。
「王様とか正妃様とか呼んだら怒るくせに。もう、ワガママなんだからァ」
つんっと皮の手袋に包まれた指先で突かれて、ユナ・レンセは顔を顰めた。
「やめてくれ……『月の谷』の印象が悪くなる」
「今更だよ、『月の谷』の男なんて皆こんなもんだ」
肩を叩かれ、そのまま肩を寄せて囁かれ、ユナ・レンセは思い切り嫌な顔をする。自分を含め『月の谷』の男がこういうタイプばかりということは、否定できなかったが、ヤンに言われると肯定したくなくなってしまう。
「ヤン……マイス坊や、怒ってたか?」
「おやぁ?大将ってば、怖いのかい?」
「大将と呼ぶなよ。急に老けた気がする」
適当に束ねた黒髪を後ろに払い、ユナ・レンセはヤンのサーコートの襟を無造作に掴んだ。腕を伸ばすとヤンの体が離れる。漆黒のサーコートに刺青に褐色の肌の男、ヤン・ミラン。彼が目立たないはずもない。
「ちょっと離れてろ」
「仕事にならないんだけど」
急に真面目な顔になられてユナ・レンセはため息を付いた。
「俺の行く手を阻むなら、殺す」
にっこりと告げられて、ヤンは素早く身を引き、両手を掲げる。
「えーと、ボク、正妃サマを見失っちゃったヨー。困ったネー」
胡散臭く言うヤンの顔をしばらく観察してから、ユナ・レンセは短く息を吐いた。
「誰の命令だ?」
問われてヤンは刺青に縁取られてくっきりとした目を細める。端の垂れた青鈍色の目と紅い刺青とのコントラストは、二つの色をどちらも際立たせていた。
「それをお聞きになりますか、王様ユナ・レンセ?」
「グラジナか……」
答えを聞くまでもなく、その表情だけで読み取ったユナ・レンセにヤンはつまらなさそうに肩を竦める。
「で、アンタはどこに行くんだ?」
気安い口調で問い返されて、ユナ・レンセはゆっくりと瞬きをした。瞼に黒い瞳が隠された後、瞼の上に被さった黒い膜でも押し上げるように、目を開けると同時にその色が黒から金に変わる。
獣の色だと、ヤンは思った。けれど、獣は人間のように簡単に仲間を殺しはしないのだと思うと、少しだけ安堵する。
「リトラ共和国へ飛ぶよ。『赤剣』を確保してくる」
その方法が非情な手段であろうことは、言われずともヤンには分かっていた。死神のような『月の谷』の魔法使い。
「『赤剣』の継承者なら、バッセル帝国の皇帝が今、保護してるって話だぜ?」
グラジナから得た一番新しい情報を公開すると、ユナ・レンセが驚きに目を瞬かせた。
本来、『赤剣』はバッセル帝国にあるもの。なので、それを皇帝が確保したとしてもおかしくはないが、その時期が今であることが不思議でならない。
「リオセリスの血縁は少ない……あの婆さん、『赤剣』を誰かに移すつもりか……」
呟いてから、黄緑にも見える不思議な金髪の持ち主が瞼を掠めて、ユナ・レンセは息を飲んだ。
彼ではなかったと一度は安堵したのに、今更、それを覆されるのか。
「俺の傍には、誰も残らない……ははっ、正真正銘の死神だな、俺は」
自嘲的に呟き、片手を額にやるユナ・レンセが、二十代にしか見えない外見に反して、酷く枯れて疲れているような気がして、ヤンは目を凝らす。
もう一度ヤンが見つめた時には、もうユナ・レンセは表情を引き締め、その金の目に迷いはなくなっていた。
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