第59話 失われた記録 3

 部屋を出たケイラが手を引いて連れてきた相手を視界に入れて、エルグヴィドーは僅かに眉を顰めた。赤い髪に緑の目の少年の姿の魔法使いは、赤茶色のローブを身に纏い、白いブーツを履いている。

 その白いブーツと下半身に纏っているものとの間に、白い膝が見えた気がして、エルグヴィドーは目を凝らした。

「……ウェディー、珍しいものを着ているな」

「着せられたんだよ、言わないでくれ」

 不機嫌面の彼……もとい、彼女、ウェディーは珍しくも、ローブの下にベージュのスカートなどはいている。しかも、よく見ると髪形もいつもと違うような気がした。エルグヴィドーはあまり女性の格好など気にしていないので、どこがどう違うかを把握できなかったが。

「君がアディ以外の人間の服装について、言及できるだけの感性があったことに驚くよ、僕は」

 そんな格好をしているのがよほど恥ずかしいのか、指先で首に下がる四葉のペンダントトップを指先で弄るウェディー。

「リオセリスから、山積みの見合い写真を渡されたんだろう?」

 くくくっと不気味に笑うケイラに、ウェディーは肩を竦めた。

「王様ユナ・レンセから、何か連絡があったか?」

「さぁ……分からないよ。リオセリスは彼について行っても死ぬだけだと言ってたし、僕もそう思うよ」

 呟いてから長く息を吐き、ウェディーは緑の目でじっとエルグヴィドーを見つめる。

「軽蔑していいよ、僕はこの期に及んで怖いんだ。死ぬのが怖いよ……自分が死ぬくらいなら、キエラザイト帝国なんて、滅びてもいいって……そう思う」

 両手で顔を覆ってしまったウェディーに、エルグヴィドーは不思議そうに目を瞬かせた。彼女の言っていることの意味がよく分からない。

「彼は、君を死なせるようなことは、しないと思う。君を守るだろう」

 自分の命を捨ててでも、自分以外の命を守ろうとするのがあの男だ。それをエルグヴィドーはよく分かっていた。

「僕はね、あいつが大嫌いなんだ」

 きっぱりと言い切るウェディーに、ケイラが笑い出す。

「正直だね。若いってのは、そんなもんかね」

 かつてはその年代だったこともあるであろう……ことがあまり考えられない、枯れた老婆の呟きに、ウェディーはもう一度肩を竦めた。

「リオから、言われたよ。僕じゃ無理だって。『赤剣』は術者と使用者との間に、強い信頼と愛情がなければ意味を成さない。でも、僕はあいつが嫌いなんだよ」

「そうじゃなくて、あんたは世の中の男という男を嫌悪しているんだろう?」

 ケイラの囁きに、ウェディーは顔を赤らめる。怒りと悲しみの混ざり合った表情で俯いてしまうウェディーの背を、ケイラはゆっくりと撫で下ろした。

「サリューを殺してから、ますます死が怖くなったか?」

 ケイラの声は、断罪にも蔑みにも聞こえる。


「僕は……僕は、師匠が憎かった。僕を抱いて、僕の子どもを殺した彼が……でも、彼を殺して、血塗れの彼がもう動かなくなったのを見たら……僕は……」


 惨いだけの男ではなかった。時には優しいこともあった。穏やかで落ち着いた物言いをする、静かな男だった。

 彼が権力を振りかざして泣かせた少女の数は限りなく、彼を殺したウェディーが罪に問われるようなこともなかった。

 けれど、ウェディーの体には、あの日以来、ぽっかりと虚ろな穴が空いている。


「もしかすると僕は、彼が僕以外の相手も抱くことが嫌だったのかもしれない。僕以外の相手に笑顔を向けることが、嫌だったのかもしれない。僕は、彼の真意を確かめることもしなかった。彼が死んで、僕は……真意を確かめることもできなくなった」


 ウェディーの声がくぐもっているのは、両手で顔を覆っているからではなく、彼女が泣いているからかもしれないと、エルグヴィドーは思った。

「魔法使いなんて……簡単に相手を殺せる力を持ってるなんて、幸せなことじゃないよ……」

 異端で異形の魔法使い。

 ウェディーの師匠だったサリューがどのような扱いを受けてきたかは分からないが、魔法使いのほとんどは周囲との間に軋轢を感じながら幼少期を過ごす。突然変異的に生まれる魔法使いの多くは、両親に似ず、人間ヒューと魔法使いウィザードという種族までも異なってしまう。

 アディラリアのように愛されて守られた記憶を持つ魔法使いは、ごくごく稀なのだ。

「僕は、愛情も信頼も、持てないよ。きっと、誰に対しても。僕は自分が大事なんだ……だから、王様ユナ・レンセと一緒には行けない」

 それを予測してバッセル帝国皇帝のバッセル・ドゥーラ・リオセリスがウェディーをリトラ共和国から呼び戻したのかと、エルグヴィドーは納得する。リオセリスもまた、この大陸の行く末を案じていた。

「どうするかい、エルグヴィドー?」

 問われて、エルグヴィドーはウェディーをじっと見つめる。

「『赤剣』を、私が継承すべきと、皇帝陛下は決断を下されたのか?」

 自らが仕えるべき皇帝を思い浮かべ、自然と背筋を伸ばすエルグヴィドーに、ウェディーは緩々と首を振った。

「君は、王様ユナ・レンセに深い愛情と信頼を持てるの?」

「不可能だ」

 即答するエルグヴィドーに、ケイラが盛大に吹き出す。

「そうだろうさ。あんたが愛してるのは、ただ一人、アディだけだからね。アートが使用者なら、話は別だがね」

「それは、無理だね。『赤剣』は元々、『月の谷』の戦士のためのもの。月の聖霊の加護がないものが持てば、一瞬で焼き尽くされてしまうよ」

 継承者となった時に、耳にたこができるほど言われた言葉を思い出し、口にするウェディーに、エルグヴィドーは片眉を上げた。

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