第55話 正妃と宰相 5

 影の中から生まれ出でた漆黒の竜……というよりも、形はトカゲに近く、翼がなく、体の大きさも馬程度のそれを、ユナ・レンセは馬トカゲと呼んで可愛がっている。その馬トカゲに乗って夜の帝都を見回るのが、ユナ・レンセの日課だった。

 袖がつき、襟がつき、両脇に深いスリットの入った、名ばかりとなってしまったサーコートを纏い、腰には刀身が子どもの背丈くらいある刀、黒革のブーツと黒革の手袋という出で立ちで、馬トカゲに跨ると、その細身の漆黒の生き物は、体重など感じさせない動作で窓から抜け出て、王城の屋根の上を駆けていく。二本の足で駆けながら屋根伝いに王城の端の見張り塔の傍まで来ると、翼でもあるかのように馬トカゲは跳躍して一気に見張り塔の上に降り立った。

 帝都で一番高い石造りの見張り塔の屋上は、月光を反射して白い石が僅かに青く光っている。濡れた床に、ユナ・レンセは冬が近いことを感じた。

 石の床の下の最上階には、夜勤の魔法騎士が異常がないか目を光らせているのだろう。

 轟と物凄い風に吹かれ、ユナ・レンセは空を見上げた。月影を遮り、『星の舟』が中空を飛んでいく。あの球体を真っ二つに切り、その断面に街を乗せた不思議な場所で、かつてユナ・レンセも暮らしていたのだ。

 『星の舟』は滑るように白光りしながら暗い空を飛んでいく。

 ユナ・レンセは目を細めてそれを見送り、続いて月を仰いだ。

 夜気は冷たく澄んでいる。こんな夜には、飛び交う気の遠くなるような見えない魔法の波動も、実にはっきりと感じられた。

 月光を浴びながら、ユナ・レンセは神経を尖らせて、その一つ一つを解きほぐし、その中に潜む悪意を見つけるために意識を凝らす。クモの巣のように絡み合い、どこから出てどこに行くのかも分からない見えない脆い糸を、一本一本指先で弾き、その音に濁りがないかを確かめていくような作業。

 細めたユナ・レンセの目は、月を映したように金色に輝いていた。

 感じ取った波動の一つに不審な音を感じ取り、ユナ・レンセは目を見開く。命じるまでもなく、馬トカゲは滑らかな鱗に覆われた首を伸ばし、油膜が張られたように鈍い虹色に輝く目をユナ・レンセの進むべき方向に向けた。

「行くか」

 ふっと微笑み馬トカゲの首を撫でると、漆黒の馬トカゲは飛び降り、音もなく王城の屋根の上に降りる。そして、足音すら立てず不安定な屋根の上を真っ直ぐに走り始めた。



 帝都の外れの裏路地の一角にある斜めになった廃屋に、その男たちはいた。若い魔法使いが三名と、目の部分だけ穴が空いた黒い布を被った、黒尽くめで腕の異様に長い生き物たち。

 斜めになって簡単には開かないはずの分厚い木の扉は、ユナ・レンセの一蹴りで吹っ飛んだ。若い魔法使いが振り向いた時には、ユナ・レンセは体勢を低くして一気に距離を縮め、片手で一人の魔法使いの喉を掴み、横にいた魔法使いの振り向いた顔面をもう片方の手で捕らえる。

 悲鳴を上げる間もなく、掴んだ喉は鈍い音を立てて握りつぶされ、顔面を掴まれた魔法使いは、それを軸にして無造作に壁に投げつけられた。頭が奇妙な方向に曲がり、首の骨が折れる音が響く。

「サウス……」

 花のように組み合わされたひし形の横に、白い月と雫の紋章が刺繍。

 それを目にして最後の一人の魔法使いが呟くのに、ユナ・レンセはほんの少しだけ目を細めた。

 一応、人間に似た格好をしているが、腕が地面に着くほどに長い六体の奇妙な生き物が、最後の一人の魔法使いを守るように前に出て、ユナ・レンセに飛び掛る。

 そこでようやく、ユナ・レンセはブーツの踵で床を叩き、名乗りを上げた。


「ギド・セゼン・サウス・レフィグル・ダイス・レンセの名において、宣言する。俺の道を塞ぐものは一言の弁解も懇願も許さず、全て殲滅する」


 そして、その宣言通り飛び掛ってくる漆黒の生き物を彼は素手で掴み、引き千切り、蹴り折る。

 悲鳴を上げて失禁した最後の一人の魔法使いの前に立つ時も、彼は腰の刀に手を触れもしなかった。



 星すらも見えない。

 そんな真っ暗な夜の海の真ん中で、櫂も羅針盤もなく小舟に乗ってただ波に揺られるままに流されているようだった。

 グラジナの父、ディオティン・ドゥシャン・オーレリウスと、マイスの父、アスティール・カレル・キエラザイトが死んだ夜、マイスとグラジナは泣くことすらできなかった。

 夜更けに叩き起こされて、向かった父の寝室で、ドゥシャンは死んでいた。その遺骸は、獣に食い荒らされたかのようにズタボロで、天蓋つきのベッドは垂れ幕が引き裂かれ、血に浸かっていた。

 後から聞いた話では、カレル皇帝陛下とその奥方の遺骸は、もっと悲惨な状態だったらしい。

 宰相と皇帝を一度に亡くし、混乱しきった王城へ、夜着のままに駆け込むと、子ども部屋の隅でマイスが膝を抱えていた。侍女たちはマイスを宥めようとしているようだったが、マイスは手当たり次第に近くのものを投げ、ひたすらに奇声を上げ続ける。

 ほんの九歳の子どもが、両親を亡くし、次の皇帝として立つので着替えろといきなり言われて、平静でいられるわけもない。

 髪も結ばず、膝下まである簡素な夜着姿のまま、子ども部屋に駆け込むと、マイスはアイスブルーの目で呆然とグラジナを見上げた。グラジナもまた、父親の死を目の当たりにして、どうすれば良いかも分からぬまま、王城に引き摺られてきた十六歳の少女でしかない。

 けれど、マイスはグラジナを目にして、ぐっと食いしばっていた歯を緩め、長く長く息をついた。そして、裸足のまま駆け寄ってくる。

 胸は育たぬくせに背丈だけ無駄に伸びたグラジナの腰に抱きつき、マイスは平坦な彼女の腹に顔を埋めた。グラジナはマイスの髪を撫で、ようやく自分の手が震えていることに気付く。


「お父様とお母様が死んだよ、グラジナ。私も、死ぬのかな?」


 皇帝と宰相を葬った呪詛が、次に誰に向かうのか、グラジナもぼんやりと分かっていた。両親の死を目にして、その上、間近に迫る自らの死に怯えるマイス。

 けれど、泣きもせず必死にグラジナを見上げる彼のアイスブルーの目に、グラジナは表情を引き締める。

「守ります。きっと、あなたを、守ります」

 漆黒の闇の大海に浮かぶ小舟のように、寄る辺なく、先も見えないマイス。

 その盾となり、剣となり、櫂となり、羅針盤となって、果てようとその時、グラジナは決めた。 


 マイスとグラジナがやっと泣けたのは、翌朝、駆け込んできたユナ・レンセに有無を言わせず二人纏めて抱き締められた時だった。

「すまない、守れなかった……」

 力強い腕に抱き締められて、二人の子どもは声を上げて泣いた。

 その時から、ユナ・レンセはグラジナとマイスの暗い海を僅かに照らす月となった。



 物音が聞こえた気がして、グラジナはベッドから立ち上がって窓際に向かう。窓の鍵を外し、そっと開けると窓の外の屋根の上に黒一色の男が立っていた。

「王様ユナ・レンセ、いくらあなたでもこんな深夜に訪ねてくるのは、礼儀知らずではないですか?」

 苦笑しながら問いかけると、ユナ・レンセは窓に近付いてくる。彼が馬トカゲと呼んで可愛がる小柄な羽根のない竜は、今は影の中に隠しているようだった。

「無事か、確かめたくて」

「また、わたくしの暗殺が企てられていたのですか?」

 グラジナの問いかけに、ユナ・レンセは笑顔を見せるだけで答えない。近付いてくると鉄錆びくさい臭いがして、グラジナは顔を顰めた。

「あなたが手を汚すことはないのに」

 冷酷と断じられるグラジナの赤茶色の目が、翳ったのに気付いてユナ・レンセは緩々と首を振る。それから、血の臭いのする革の手袋を外して、素手でグラジナの窓辺に置いた手に触れた。

 ユナ・レンセは外にいて、グラジナは先程まで暖かなベッドの中にいたというのに、彼女の手は冷え切っている。ユナ・レンセは手を握られて小首を傾げるグラジナの不思議そうな顔を見つめた。

「俺は正妃を降りるから、ゼルランディアを正妃に据えて欲しい」

 その瞬間、グラジナの目が揺れたのをユナ・レンセは見逃さない。即座に笑顔を作ったグラジナは、静かに頷いた。

「分かりました」

 理解はしていても納得していないはずなのに、淡々と答えるグラジナの笑顔は、ユナ・レンセにはあまりにも痛々しい。

 しかし、それ以外に道はなく、ユナ・レンセは冷たいグラジナの手を握り締めた。




 不穏な気配に気付いた瞬間、ゼルランディアはベッドから飛び起き、その脇に置いてあるベビーベッドの中の娘を抱き上げた。深く眠っていた赤ん坊は、乱暴に抱き上げられて目を覚ます。

 しんと静まり返った寝室は、冷たい空気に満たされていた。

 耳鳴りがしそうなほどの静寂の中、ゼルランディアは目を覚ましてもぞもぞと動き始めた娘を抱き締め、低く唱え始める。

「シノ・ゼルランディア・クローディス・イリウの名において命ずる。私は一切の敵意の存在を認めない。憎しみも眼差しも、振り上げられる手も、抜かれた刃も、全て私の前では意味を成さない」

 防御の魔法を幾重にも幾重にもかけるのに、不安は拭い去れず、ゼルランディアは赤ん坊を強く胸に抱いた。むずがって泣き出す娘に構わず、ゼルランディアは部屋の闇に視線を巡らせる。

 どこかで……ゼルランディアに向かって呪詛が発動されたのは、確かだった。

 それがいつこの場所に到達するかは分からない。

 無意識のうちにゼルランディアは首のチョーカーに指先を触れていた。青い石はゼルランディアの体温を受けて暖かい。

「ルヴィウス……私達を守って下さい」

 目を閉じ、亡くした夫に祈るゼルランディアだが、ふっと霧が晴れるように不穏な空気が去って、驚きに目を丸くした。

 絡み付くように粘度を増していた空気も、もうすっかり澄み切っている。

「ルヴィウス……?いや、まさか……」

 呟いてからはっと息を飲み、ゼルランディアは娘を抱いたままベッドから駆け下りていた。

「ユナ・レンセ!?」

 窓辺に駆け寄って外を見るが、広がるのは夜闇に霞む壁と屋根ばかり。

「どうやって……」

 その呪詛を分解するのかと呟きかけて、ユナ・レンセがそういう類のことが一番苦手だったことに気付き、ゼルランディアは青くなった。

 夜が明けたらユナ・レンセの元を訪ねて、彼がまだ呪詛を留めているならばそれの分解を請け負おうと心に決めたゼルランディアだが、それは敵わなかった。

 翌朝、正妃の部屋を訪ねたゼルランディアは、そこで待っていたグラジナに、「正妃になりなさい」と命じられ、娘のミルシェと共にそこから一歩も出ることが出来なくなってしまう。

 その日から、ゼルランディアはユナ・レンセに会えなくなってしまった。



 ゼルランディアに向けられた呪詛を握り締めて止めたはいいものの、その呪詛の発信源を突き止めて魔法使いを葬っても、消える気配のない呪詛に、ユナ・レンセは辟易していた。

 握り締めていなければ漏れ出し、対象ターゲットに向かうであろうそれは、あまりにも始末が悪い。けれど握り締めたままでは眠ることも出来ず、二週間耐えたが限界に達し、ユナ・レンセは自由都市連合のシーマ・カーンにあるアディラリアの家を訪ねた。

 一緒に来て欲しいと願うユナ・レンセの頼みを断り、アートは呪詛を請けて負傷した。血に塗れたアートを助けたいと思ったのに出来ることは何もなく、ユナ・レンセは駆け込んできたエルグヴィドーに叱責されるままに退散するしかなかった。


 アディラリアとアート。

 本人たちは明らかにしていないが、カードの裏と表のように同時には存在できない呪いをかけられたであろう彼らが、別々に存在するのを、ユナ・レンセは一度だけ見たことがあった。

 あれは、彼らが『星の舟』に来た日。

 小さなアディラリアの背中を、アートが抱いて歩いていた。

 講義室の窓から見下ろしていたユナ・レンセと目が合った瞬間、アートは物凄い憎しみの目を向けたので、ユナ・レンセはその邂逅をはっきりと覚えていたが、アートに後から聞いても全く覚えていないと答えられた。


――いい加減に、馬鹿げた茶番はやめてくれ。お前が何をしたいのか俺はおぼろげながら掴んでるけど、それに命を懸ける価値があると、思うのか?やり遂げることすら、不可能だと俺は思うぜ?


 アートの言葉はいつも、圧倒的に正しい。


――うん、俺は馬鹿だ。アートがそれを知っていてくれるなら、俺はどんな汚名を被っても構わない気になれるよ。お前は、俺に勇気をくれる。


 グラジナと同じようなことを呟いたユナ・レンセをアートは容赦なく罵った。


――ゼラを犠牲にして、マイス坊やを騙し、エルグと決別し、ラージェを盾にして、アディに変なもの押し付けて……お前、それが本当に正しいと思ってるのか?


 歯に衣を着せずはっきりとユナ・レンセを「馬鹿だ!」と断じてくれるアート。

 彼の存在がユナ・レンセには必要だった。

 長く生き過ぎて人間として崩壊し、魔法使いとしても不完全なユナ・レンセ。

 何もかもを捨ててしまいたいと思う気持ちに、唯一歯止めをかけているのは、アートのあの冷ややかな目だけ。


 血塗れのアートを捨てたまま、何も出来ずに戻った王城で、グラジナがユナ・レンセを待っていた。

「ゼルランディアを正妃にする手はずが整いました。……また血の臭いなどつけてきて」

 淡々と言ってから、眉を顰めたグラジナに、ユナ・レンセは両手を掲げる。

「愛してる相手を、殺しかけてきたよ」

 嘲笑混じりに呟くユナ・レンセに、グラジナは微笑んだ。

「その相手が羨ましいですね」

「大丈夫だ、君も、ちゃんと、マイスに憎まれて、殺される」

 ユナ・レンセの精一杯の皮肉に、グラジナは満足げに頷く。

「その日が来るのを、待っているところです」

 彼女の赤茶色の目は死を見据えて透明度を増していた。

 自分も同じような目をしているのだろうかと、ユナ・レンセは誰かに聞いてみたい気分になる。

「準備は出来た」

 けれど、全く別のことを口にして、ユナ・レンセは血の臭いのするサーコートを翻した。


 もう、彼には帰るべき部屋もない。

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