第54話 正妃と宰相  4

 ゼルランディアの部屋に入ってからずっと、マイスはベビーベッドの上でもぞもぞと手足を動かす赤ん坊と見詰め合っていた。それはマイスには頭頂部にお飾りのようにぽやぽやの黒い毛の生えたサルにしか見えなかった。それが女の子だと言われても、自分の子だといわれても、全く実感はない。

 奇跡のように爪まできちんと全部ある小さな手を突くと、指を握られて、マイスは恐れ戦いて手を引っ込めた。急な動きに手を引かれ、驚いた赤ん坊が泣きだす。

 顔を真っ赤にして、涙すら出さずに、「ひぃー!ひぃー!」と奇妙な声を上げるその生き物に、マイスはどうしようもなくなって、ゼルランディアに視線だけで助けを求めた。

 ゼルランディアは微笑みながら産着を着た赤ん坊を、片手で首を支えながら抱き上げ、ぎゅっと胸に寄せる。抱き締められて僅かに揺すられ、赤ん坊はすぐに泣き止んだ。

「なんで、泣くのだ?その子はどこかおかしいんじゃないか?」

 真剣な眼差しで問いかけるマイスに、ゼルランディアは苦笑する。

「まだ喋れず、泣くしかできないんです」

「でも、その子、はいはいもしないぞ?」

「生まれたばかりではしないんですよ」

「体がぐにゃぐにゃでタコのようだぞ?」

「首が据わっていないのですよ。これから、首が据わって、自分で座れるようになって、はいはいをして、掴まって立てるようになって、生まれてから一年くらい立つ頃にやっと歩くようになります」

 説明されても実感が湧かないようで、ただ遠巻きに眺めている十四歳の父親。背丈は確かにゼルランディアよりも高いし、大人ぶった顔は十七~八歳にも見えたが、あまりにも幼い彼がこの国の最高権力者なのだと思うと、グラジナの苦労も仕方がないのかもしれない。

「いつになったら話ができるのだ?」

「喋りだすのは一歳を越してからですが、普通に会話をするのは三歳くらいにならないと難しいですね」

 すらすらと述べながら、手足を動かす赤ん坊の頭を撫でるゼルランディアの伏せた目は、どんなことを言っていても母親らしかった。

「本当にこの子は女の子か?あまりにも不細工な顔だが……嫁の貰い手があるのだろうか?」

 真剣に悩みだす幼い父親に、ゼルランディアは頭を抱えたくなる。

 内心、サルと思っていようとも、祝いを言いに来た妾妃も貴族達も皆、大仰に可愛らしいとか理知的だとか述べたのに、実の父親の容赦ない一言に、ゼルランディアは呆れを通り越して感心してしまった。まだ十四歳という年齢と皇帝という身分のために、彼は本当に小さな赤ん坊と触れ合ったことがないのだろう。

 愛しむというよりもじろじろと観察するマイスに、ゼルランディアはため息を付いた。

「ところで、病院の改革のことはどうなりました?」

 子どもを生む条件としてマイスに化した課題を持ち出すゼルランディアに、マイスは深く頷く。

「ようやく、グラジナを説得した。老人と子どもの医療費の引き下げは来年からできそうだ」

「上下水道の完備は?魔法使いの医療研究所を民間医療にも反映させるのは?」

 矢継ぎ早に質問してくるゼルランディアに、マイスは顔を顰めた。

「そんなに……すぐにはできない。私も、全権を握っているわけじゃないんだ」

 情けないことを口にするマイスは、哀愁を漂わせても美しい。


 白金の髪に真っ白な肌、アイスブルーの目の繊細なガラス細工のような美貌の少年。


 うな垂れている様は、ゼルランディアでない女性ならば皆、母性本能をくすぐられて、思わず彼を抱き締めてしまうだろう。けれど、こんな未発達な美少年よりも、数百倍完成された美貌の男(ただし、左半分だけ)を知っている身としては、全く心が動かない。それどころか、計算された幼さを感じ取って、ゼルランディアは少々気分が悪くなった。

「できるだけ早く、お願いしますね」

 カリンサ領に残してきた老人たちを思い浮かべ、ゼルランディアはマイスを真剣に見据える。マイスは俯いたまま、「あぁ」と頷いた。


「グラジナは、私が嫌いなのだろうか……」


 ぽつりと零された言葉に、ゼルランディアは顔を歪める。どこをどう解釈すればそのようなことになるのか、マイスの思考が理解できなかった。

「ご本人に聞けばよろしいのですよ」

「グラジナは、『陛下はわたくしの大切な傀儡です』と言ったのだぞ!」

「あ、言いそう、あの女」

 赤ん坊をベビーベッドに戻してから、ぽんっと手を打つゼルランディアに、マイスは白い頬を赤く染める。目元が朱鷺色になって、マイスの顔立ちはますます少女っぽさを際立たせた。

 そばかすだらけで青年のような容姿のグラジナが、コンプレックスを持っても仕方がないようなその可愛らしさに、ゼルランディアは嘆息する。

「私は……皇帝など、今の時代にそぐわないと……意味がないと、思っているのに」

 ソファに座り込むマイスに、そんなに簡単にはことは進まないのだと、噛み砕いて説明してやるだけの気力が、ゼルランディアにはなかった。色々な権力の思惑が絡み合い、彼一人が「皇帝やめた!」と叫んだところで、彼が引き摺り下ろされて、次の皇帝が据えられるだけだろう。

「正しいことをやるためには、力がいるのです」

 そのための力を今、グラジナが確立しようとしていることは確かだが、それはあまりにも危うかった。

「王様ユナ・レンセは、私が『アスティール』の名を持つから大事にするだけだ……」


 大陸を救った四人の英雄の一人。

 その血を引くマイスは、ユナ・レンセにとっては巨人を封じる竜を退けるための鍵でしかない。

 そして、その鍵の役目ももう終わりつつあると、マイスは感付いていた。


 マイスを自分の孫のように、息子のように愛してくれるユナ・レンセ。

 その目が本当には自分を見ていないことに、マイスが気付いていたのかとゼルランディアは驚く。

「ユナ・レンセは戦いに行く……私も、この国も捨てて」

 呟くマイスの目が迷子の子どものようで、ゼルランディアはその髪を撫で、その体を抱き締めてしまう。泣くことすらできず、全ての運命を流れるままに見ているこの少年は、まだ十四歳なのだ。奔流に押し流され、もがくこともできない彼。

 その孤独な姿を目の当たりにしても、ゼルランディアはその場しのぎの嘘などつけなかった。

 けれど、一つだけ、本当のことを言える。


「彼が戦うのは、あなたのためです」


 大陸の命のために。


 巨人の王がいなくなれば、それを守るために帝都から動かないキエラザイトの皇帝も開放される。

 巨人を監視するために浮遊する『星の舟』の先見の魔法使いも解放される。

 『赤剣』の継承者も解放される。

 そして、巨人と相対するための魔法使い集団とされる、バッセル帝国のレイサラス家も解放される。


 全ての開放のために、そして全ての命のために、ユナ・レンセは戦おうとしていた。

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