第36話 アディラリアと古国の王  2

 風呂場から出た廊下に立っていたアディラリアに詰め寄り、その髪に手を差し入れると、優しく彼女が微笑む。後頭部を手で支えて口付けると、温かな舌が自らルインの舌を誘い込んだ。

 バスローブの合わせから手を入れて、脇腹から胸に手を滑らせるルイン。豊かなアディラリアの胸は、柔らかく心地よい。ルインの髪から滴る水に苦笑して、アディラリアは唇を放し、小首を傾げた。

「興奮してるのかな?ちょっと、坊やには刺激が強すぎたか」

 約四十分間の戦闘で流れた血の分だけ、ルインが高揚していることは否定できない。けれどそれだけではない抗いがたい魅力が、アディラリアにはあった。

 滑らかな背中に腕を回して、耳たぶを軽く噛むと、血の味が舌に残る。アートがピアスの穴を無理やりに開けたことを思いだすが、どうしてもアートの傷がアディラリアにもあることが理解できず、ルインはそれを不思議に思ってしまった。

 舌先で傷口を抉ると、アディラリアの口から吐息が漏れる。

「結局、『星の舟』に取られたじゃないか……」

 追い詰めた魔法使いを回収しに来た『星の舟』の魔法使いたちを思い出し、ルインが不平を言うとアディラリアがくすくすと笑った。

「君が殺したかったの?駄目だよ、人間が魔法使いを殺しちゃ」

「アートが殺せば良かったんだ」

 あんな魔法使いは死ぬべきだと平然と口にするルインの頭を、アディラリアは優しく撫でる。硬く真っ直ぐなルインの髪は、指の間をすり抜けて零れ落ちた。

「いい子だね、君は。それに……若い」

 幼いと言われた気がして、ルインは悔し紛れにアディラリアの胸元にキスを落す。アディラリアは笑ってそれを受け、自分の胸に顔を埋めるルインのつむじに口付けた。

「続きはベッドで。ね?」

 アディラリアの甘い囁きに、ルインは黙って従う。

 しかし、アディラリアの寝室の扉を開けた瞬間に、その甘い空気はきれいに消えてしまった。

 アディラリアの寝室の広い寝台の上には、小柄な少女が体を丸めて眠っている。

「全く、リィザってば、甘えっ子なんだから。ごめん、ルイン、今日は無理だ」

 あっさりと手の平を返してルインの胸を押すアディラリアに、納得がいかずルインが眉根を寄せた。

「客間じゃ駄目か?」

「客間のベッドは狭いもの。君の足がはみ出るくらいだよ?」

 言われてルインはため息を付く。言うまでもなくルインは長身だし、アディラリアも女性にしては背が高い方だった。そんな二人が睦み合えるほどの広さは、客間のベッドでは確保できない。

「俺の部屋に……」

「嫌だよ。朝までに戻れなくなる」

 少し離れた街にあるルインの部屋に行けば、戻るのにかなり時間がかかることをアディラリアは経験上知っていた。もちろん、魔法を使って移動すれば一瞬なのだが、魔法を使えばアディラリアが自動的にアートになって、しばらくは戻れないことを、ルインも知っているはずだった。

「また、今度ね」

 軽く言うアディラリアに、ルインは半眼になる。

「俺は、今、したい」

「若いって怖いねぇ。でも、今日は駄目。リィザにえぐいもの見せたくないから」

 抱き締めようとするルインの腕からするりと抜け出すアディラリアに、ルインは思わず囁きそうになった。

「俺はあんたを……」

 けれど、緩々と首を振るアディラリアの紫の目が、酷く褪めていることに気付いてその先を口にできなくなる。

「嘘は良くないよ。睦言を囁くのは、ベッドの上だけ。でも、今日は駄目」

 人差し指を鼻先に突きつけられて、ルインはそれに噛み付いてやろうかと歯を剥いた。呪詛を少し前まで使っていたので、ルインの歯はまだ鋭く尖っている。

 けれど、噛み付くことはなく、ルインはその開いた口を言葉を紡ぐことに使った。

「……おやすみ」

 その言葉が存外優しく出てしまったのは、夜風に一瞬だけあの黒髪の魔法医を思い出したから。

「おやすみ、また明日」

 ふわりとアディラリアが笑ってルインを部屋から押し出す。


 縋れば抱き締める。

 頼れば助ける。

 求めれば応じる。

 問えば答える。


 けれど、去れば追わない。


 黒髪の魔法医の分かりやすい優しさと対極にある、心地よい距離を保てる才能が、アディラリアにはある。けれど、それでルインの空虚さが埋まるわけではなかった。



 アディラリアには眠る能力がない。

 ルインが出て行った寝室の中で、ベッドの端で毛布を被って丸くなっている少女の隣りに滑り込み、アディラリアは目を閉じた。目を閉じたまま自分の心臓の音をゆっくりと数える。

 眠れない彼女が夜を過ごすためには、そんな儀式のようなことが不可欠だった。

 時々沈み込む意識。けれどそれはすぐに浮上してくる。

 一日に一~二時間眠れればいい方で、長く眠らない代わりに、彼女は日中も慢性的な気だるさを抱えていた。

 目を閉じてしばらく呼吸を整えていると、傍らで眠る少女がもぞもぞと近付いてきてアディラリアの胸に擦り寄る。眠っているふりを続けると、少女はそっとアディラリアの胸に手を添えて、ぎゅっと体を寄せてきた。

 例えば母性とか、包容力とか、優しさとか、居心地の良さとか……アディラリアに求められるのはいつもそんなもの。

 あの褐色の肌のかつての恋人ですら、アディラリアに安らぎを求めた。

 けれど、アートに求められるものは、それの真逆。

 過激さだとか、暴力だとか、残酷さだとか、怒りだとか……。



――誰もアディラリアとアートを同一人物とは思わないさ。

――『アート』……その名は、そういう呪いなんだよ。

――だって、美しく優しいアディラリアが、あんな壊れたアートだと気付けば、誰もお前を愛してなどくれないよ?

――お前はレイサラス家のために、より多くの魔法使いを垂らしこまなきゃいけないんだから。


――誰も、お前の本当の姿を愛しなどしないんだよ。


 レイサラス家に執着する化け物とも言うべき老人たちが、口々に告げる声を振り払うように、アディラリアは強く少女の……リィザの体を抱き締める。

 一人で過ごすには、夜は余りにも寒すぎた。

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