第61話 失われた記録 5
重い扉の前まで走りこんで、ルヴィウスは長く息を吐く。借り物の衣装は手足の長い彼には非常に不似合いだった。王城の中の侍女たちが彼を見て頭を下げていくところを見れば、自分が王城の侍女たちを束ねる執事頭か何かに見えているのだろうと予測は付く。
正妃の部屋は当然鍵がかかっていて、外から中の様子は伺えなかった。普段ならば見張りの兵士がいるのだろうが、今は東の城壁で起きている魔法使いの襲撃のため、混乱状態になっているのだろう。
「正妃様、魔法使いが王城を襲撃しております。危険ですので、御子様とともに、避難して下さい」
執事を装って扉を開けてもらおうと声をかけるルヴィウスに、中から平静な声が答えた。
「大丈夫です。私も魔法使いですから」
扉の向こう側で、ゼルランディアは、重い城壁の石が落ちる重低音と振動に怯えて、目覚めてしまったミルシェを抱き上げる。防御の魔法において自分に勝る魔法使いはそういないと思っていたので、慌てて逃げる必要はないとゼルランディアは考えていた。
それに、時折聞こえる「アート」という名前が襲撃者のものならば、彼がゼルランディアや子どもに危害を加えるはずがない。
そう思って断りを入れたのに、扉の外からはまた低い声が響いてきた。
「御子様と正妃様をお守りするために、中に入れてはもらえませんか?」
その声はどこかで聞き覚えがあるような気がして、ゼルランディアは眉を顰める。ミルシェを抱き締めるのと反対の手で、ゼルランディアは無意識のうちに、青い石のついたチョーカーに触れていた。
「私は大丈夫ですから、宰相や皇帝陛下のところへ向かって下さい」
自分を守るという大義名分でも、他人が部屋に入れば落ち着かないと思い、答えたゼルランディアに、扉の向こうから苛立ったような舌打ちが聞こえる。
「ゼルランディア、俺だ。ルインだ。開けてくれ」
その声に、ゼルランディアは息を飲んだ。
二年前にこの身を懸けてでも守ろうとした魔獣。彼が今も生きていてくれたのだと思うと、何故か泣けてきそうな気分になる。
「ルイン……こんな危険なところにいてはいけません。私はここでちゃんと生きています。だから、早く、逃げて下さい」
魔獣というものの扱いがどんなものか……どれほど蔑まれ、嫌悪されるものかを、魔法騎士やグラジナの言動から実感していたゼルランディアは扉に手をかけ、開きかけたが、慌てて鍵を閉めなおした。
自分と一緒にいれば、ルインは必ず狙われる。
キエラザイト帝国皇帝も宰相も……ユナ・レンセも、決して自分とミルシェを諦めはしないのだから。
「私のことは気にしないで、お願い、逃げて下さい。来てくれてありがとう……でも、私はもう、ここから出られません」
「開けないなら、この扉を蹴り倒す。開けてくれ」
駄目だと頭を振るゼルランディアに、扉の向こうの主は執拗に言ってくる。その声が段々と掠れていっていることに、ゼルランディアは気付いていた。
この声はまるで……。
「ゼルランディア、開けろ。ゼルランディア……シノ、私だ!」
ずんと腹の底に響く掠れた低音。
忘れることなどできるはずのない、愛しい声。
反射的に鍵に手をかけて、それを開けてから、ゼルランディアは戦慄した。
肩にかからないくらいで短く切った髪。
簡素な麻のシャツに綿のカーディガン。
地味なハーフパンツ。
土で汚れたサンダル。
なんてみっともない格好をしているのだろうと、ゼルランディアは泣き顔になってベッドの上にミルシェを置き、クローゼットに走る。クローゼットを開けて引きずり出すドレス類はどれも、着るのに時間がかかり、一人ではとても無理だと分かっていた。
「どうして……どうして……」
こんな格好の時に現れるのだろう。奇跡でも起こってもう一度会えたなら、その時には着飾って、ちゃんと大人の女性になった自分を見せたかったはずなのに。
知らず知らずのうちに顔が真っ赤になって、ゼルランディアの目から涙が零れだす。
いつだって、彼の前では綺麗な格好をしていた。自分よりもずっと大人で身のこなしも優雅な彼と、つり合うように。
それなのに、今、自分は田舎の少年のような出で立ちをしている。
「お願い……待って。どうしよう……どうしよう……」
何着ものドレスが引きずり出され、床に落ちた。その煌びやかな布の群れはどれも、自分に相応しくないが、こんな格好でいるよりはましかもしれないと、半狂乱になってその布を漁るゼルランディア。
その背中がふわりと温かくなった。
長い腕が後ろから伸び、痛みも重みも感じさせないくらい優しくゼルランディアを抱き寄せる。柔らかな抱擁に、ゼルランディアは肩を震わせて嗚咽を漏らした。
「ゼーラ?ゼルランディア?どうしたんだ?」
耳元で囁かれ、ゼルランディアはゆっくりと振り向く。その視界に広がったのは、求めていた姿ではなく、灰色の髪に灰色の目のひょろりと背の高い青年の姿だった。
「ルイン……?」
涙の零れる目を見開き、不思議そうに呟いたゼルランディアのチョーカーに、青年の長い指がそっと触れる。
「アートの言った通りだった……私が……用心深い私が、保険をかけていないはずがないって」
ぱきんっ。
青い石の砕ける音に、ゼルランディアは悲鳴を上げかけた。
これはルヴィウスが自分に贈ってくれたもので、命に代わるほどに大事なものなのに。
慄然としてチョーカーを握り締めて後ずさったゼルランディアの目の前で、灰色の髪の青年が姿を変えつつあることに、彼女はすぐには気付けない。
決意して責める目で青年を見据えようとして、ゼルランディアは唖然とした。
漆黒の髪を肩の辺りでぷっつりと切りそろえ、紫の縁取りのある白いコートを纏い、灰青に光る不思議な金属のロングブーツを履き、同色の手甲……しかも、鉤爪のように指先の尖ったものを着けた青年が、そこにいた。
コートの下には白いズボンと、紫のシャツを着ている。
輝くような鮮やかな青の目を細め、彼は自分の出で立ちを見て小さくため息を付いた。
「随分と若く設定してあるな……ヴィルセリスの奴」
呟く声も低いのに不思議と通りが良い。
見るもの誰もが目を奪われるような完全な美貌を持ったその人物は、苦々しく笑いながら手を開いたり閉じたりしてその手甲の強度を確かめてから、片手を緩くゼルランディアに伸べた。
「本当はルインだと言い張って……その青い石だけ取り上げてしまうつもりだったのに……私は駄目だな、ゼルランディア。手放せそうにない……」
「嫌です!置いていかないで!捨てないで!誰の代わりでもいいから……どんなことでもするから、お傍に、置いて下さい」
青い目の青年……ルヴィウスの言葉の前半だけを聞いて、ゼルランディアが必死にその手に縋る。
失ったと思ったものが今、目の前にある。
それをもう一度失うなど、ゼルランディアには耐えられないことだった。
「こんな作り物の体、何年保つかも分からない……それに、戦いの後に生きていられるかも、分からない。ゼルランディア、お前はその子の母親だ。守らなければいけないだろう?」
「い、いらない!こんな子、いらない!この子が邪魔なら、殺します。だから、置いていかないで」
しゃくり上げながら必死に言うゼルランディアの小さな体を抱き締め、ルヴィウスは深くため息を付く。
「冗談でも、そんなことは言うな」
「あなたが言うなと仰るなら、言いません」
必死に見開くゼルランディアの目が、森を思わせる深い緑に変わっていることに気付いて、ルヴィウスは苦笑した。
ゼルランディアは今、『魅了』の力を使っている。
全身全霊をかけて、その力を使っている。
必死にルヴィウスを魅了して自分のものにしようとしている。
「馬鹿だね、ゼルランディア……いや、シノと呼んだ方がいいかな?」
かつて、幼い日に拾った時、彼女は自分の名を「シノ」と名乗った。ルヴィウスはそんな彼女に、自らの師匠であった強く優しい女性の名前を、守り名として与えた。
「愛してくれるなら、どっちでも構いません。愛してくれないなら、名前も、私の命も、もう、いらない……」
ぼろぼろと涙を流し続ける自分の顔が、ルヴィウスにとってどれだけ愛らしく思えるかなど、彼女は知らないのだろうとルヴィウスは嘆息する。
抱き締めると容易く、ゼルランディアはその身を預けてきた。
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